buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。twitter→@khufuou2

『英語教師 夏目漱石』を読み、わたしの英語教師たちを思う

 2021年5月、『英語教師 夏目漱石』という本を読んだ。夏目漱石が若い頃にどんな風にして英語を学び英語教師となり、生徒にどのような指導をしていたか、現代日本の英語教育を良いものにしていくために彼の知見が活かせるのではないかといったことが調査され、考察されている。漱石自身は英語に関して卓越した理解、指導力を持っていたが「自分は教師に向いていない。仕事とするからには真摯に生徒に向き合って教えはするが」という考えだったらしい。だから後に小説家に転身したのだ。私が特に面白く読んだのは彼が10代の頃書いた「縁日」「扇子」というタイトルの英作文と現役東大生の英作文の比較、もっと後に書かれた『方丈記』序文の英訳、悪戯盛りの生徒たちが揶揄ったりひねくれた質問をして困らせようとしたが彼持ち前の知識とはしっこい弁論で逆にやり込められるのですっかり漱石に一目置いてしまったエピソード、などである。漱石に英語を教わるのはずいぶん面白かっただろう。

 

 この本の読後感に触発されて、私は自分が教わった英語教師たちのことを思い出した。私は比較的英語が好きで成績も悪くはなかった。中学1年生で初めて英語を教わった30代の男性教師の指導が上手だったのが良かったと思う。発音が良かったし文法をだいぶ丁寧に教えてくれた。ただし、彼はめちゃくちゃ性格が悪かった。東京で生まれ育ったことや早稲田大学英文科卒の経歴を鼻にかけて事あるごとに「沖縄の子供の学力は低くっていけない」とくさすし(私は小中高と沖縄で学んでいた)、スチュワーデス(今はキャビンアテンダントと呼ぶ)の彼女のことを自慢するし、雑談を始めたと思えば「男子厨房に入らず」みたいな時代錯誤的な持論を展開するし、生徒の依怙贔屓もするし、それはもう無茶苦茶に嫌われていた。中高一貫校だったので高校3年生の時再び彼に教わることになったが、彼に反発した約半数の生徒は授業をボイコットし、英語の時間の教室はスカスカだった(ボイコット勢は空き教室で自習していた、9割以上の生徒が大学受験をするような進学校だったのだ)。私は、この教師は確かに性格は終わっているが英語指導の腕は確かなので授業は受け続けよう、と決めて卒業まで彼の授業を受けていた。高校生の時点で英検2級をクリアし、TOEICスコアは630であった。家族の影響で洋楽を好み歌詞カードを見て自分で和訳して遊ぶみたいなこともしていたので英語を学ぶことに対して抵抗はほぼ無かった。

 

 愛媛の大学へ進学したが、そこでは学術的英語の講義とはまた別にネイティブスピーカーを講師に据えて会話を学ぶというややリラックスした雰囲気の必修クラスがあった。初めてクラスを担当したマシュー(family name も覚えているがここで勝手にfull nameを明かすことは憚られるので書かない)はスキンヘッドのハイテンションな男で、初対面の時誇張なしに「Everybody~~~~!Yeah~~~~~!」と叫び両手を広げながら教室に入ってきたので学生はあっけにとられたものだ。学生の手前ハイテンションを装ってるのではなくガチのハイテンションだった。クラスの内容は学生同士でペアを組んで英語で自己紹介とか趣味について話し合うとか、そういったごく簡単なものだった。好きな音楽を言い合う時、本当に好きなマイナーなミュージシャンを言っても相手は知らんだろうと思ってテキトーにマリリンマンソンが好きだと言ったらペアの男子学生が結構マリリンマンソンが好きだったらしく「マジで!どの曲がすき?俺は最新アルバムの○○が」みたいに食いついてきて困ったということもあった。私はマリリンマンソンならposthumanという曲が好きだ。

 

 年度が進んでまた別のネイティブスピーカークラスをとる時、いくつかのクラスを提示されて学生は希望のクラスを選ぶことになった。1年次のクラスに毛が生えた程度の日常会話クラスから政治や社会情勢についてディスカッションする少し難しめのクラスまで様々だったが、多くの学生は楽して単位を取りたいので日常会話クラスに希望が殺到し抽選となっていた。一方私は当時「敢えて難しいクラスを選ぶ私カッコイイ!」みたいな自意識と克己心に酔っており、たいして英語に苦手意識も無いので迷わず社会情勢ディスカッションクラスをとった。そこで講師のジェイ(マシュー同様family name は書かずにおく)に出会った。ジェイはハワイ出身で、金髪を長く伸ばし日に灼けた肌をしたサーフィン好きの物静かな男だった。もともと簡単なクラスを希望していたのに抽選漏れでやむなくこのクラスをとることになった大部分の学生は腰がひけていたが、私はやる気満々だった。クラスが終わったあとも「今のブッシュ政権についてどう思うか」みたいなことをジェイに訊きに行ったりしてた。返ってきた答えの3割ぐらい理解できていたら上出来だったろう。ある日「英語についての自分の考えを英語で紙1枚に書いて出してくれ」と言われたので、張り切って「英語はまず響きが美しい、文法構造も面白い、英語を勉強するのが楽しい」といったことを書いて出したらジェイはたいそう喜び、みんなの前でほめてくれたので嬉しかった。太宰治の『正義と微笑』でみんなに慕われている英語教師が出てきて生徒がこぞって彼に認められようと英作文に取り組むシーンがあるが、あんな感じである。ジェイは真冬でも半袖を着ていて、学生にそのことを言われたら「だって愛媛は暖かいもの」と返していた。雑談の時にじぶんは沖縄出身なんですよと言ったら少し考えて「沖縄の海は意外と寒い。地元のハワイと同じ感覚で海に飛び込んだらめちゃくちゃ寒くて往生した。2月ごろだったかな」と返してきたのを覚えている。

2021年05月01日、雨と風

飼い犬のタローを動物病院へ連れて行った。ずいぶん混み合っていて、1時間ほど待ち時間があったので近くの松本城へ散策に行った。前日のローカルニュースで松本城おもてなし隊の甲冑を着た人が「感染症への警戒のため訪れる人が少なく仕方ないのだがさびしい」と切ながっている様が放映されていたが、たしかに人はまばらだった。タローは堀にいる鯉の群れがこわいらしく、あまり堀の方を見ないようにして歩いていた。鯉に餌をあげるのも人間の娯楽の一つではあるんだよな、となんとなく思った。

 

タローの診察が済んで、少し前に受けた腫瘍除去手術の経過は良好であること、体に障るかもしれないから狂犬病予防接種は今年度は止しておく旨を確認した。飼い犬は全て例外なく毎年狂犬病予防接種を受ける決まりだと思っていたが、コンディションに不安がある老犬や手術直後の犬などはその限りではないということは初めて知った。エコー検査、抗体検査、フィラリア予防薬処方、問診でしめて40,000円かかった。

 

夫が駅前の駐車場に車をとめて新しいメガネを作りに行き、私とタローは車で待った。1時間ぐらい暇だったので、図書館から借りてある『英語教師 夏目漱石』の、漱石愛媛県で教鞭をとっていた時代のエピソードを音読してタローに聞かせた。

 

夜はご飯を食べて缶入りの酒を1本飲んだ。成分がウォッカとライム果汁だけのシンプルなやつで、口当たりよく悪酔いしない感じだったので良かった。私は醸造酒を飲むと背中にゾクゾクッとイヤな寒気が走って二日酔いっぽくなるので、最近は蒸留酒以外の酒は避けている。

 

 

切れたネックレス

何年も前だが、母から千切れたネックレスと千切れたブレスレットを譲り受けた。18Kだ。修理して使えばいいと言われた。面倒くさくてずっと引き出しの奥にしまってあったのだが、なんとなく存在を思い出したので駅前のジュエリーショップに持ち込んだ。ネックレスの方はものの5分で繋がり、特に料金も要らないと言われた。ブレスレットの方は2箇所切れていて加工が必要と言われ、2,200円×2で合計4,400円の料金を支払った。こちらは修理に1週間かかるみたいだ。受付の人に「母から貰った時点でもう既に壊れた状態だったんです」と言うと「直してから渡してくれればいいものをねえ」と笑っていた。直ったネックレスの方はさっそく身につけて帰った。街中で半袖を着ているのは私だけだった。

 

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疲弊

 なんか疲れていてなにも興味が持てなくなっているのだが、「インターネットのやり過ぎか?」という疑いがある

インターネットのやり過ぎで精神が疲れて、精神が疲れると意欲や好奇心も低下するからそれで何事にも興味が湧きづらくなっているということのような気がする。という話を友達のNぼんにしたら、彼女がインターネットを控えるきっかけになったという本を教えてもらった。大学の図書館にあることがわかったので予約した。読んだら感想書きます。NぼんはツイッターやLINEやSNSの類いも止して、ネガティブな感情が出づらくなったり集中力が続くようになったと言っているから真似したい。最近Twitterにもそこまで魅力を感じなくなっているのだが、昔からの習慣というか惰性で見てしまうので良くない。というかマジでTwitter見るのはよくないと思う。最近特に嫌なうえにつまんない感じの情報が多過ぎる。できるだけ別の活動に置き換えていこうと思う。ネットをやめたい話をネット上に書くのはなんか矛盾してないかと思うのだが、まぁブログは独り言の場だからセーフという事にする。

読書記録 『依存症のすべて やめられない気持ちはどこから来る?』廣中直行 著

 廣中直行という医学博士が著した『依存症のすべて やめられない気持ちはどこから来る?』という本を読んだ。

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依存症のすべて 「やめられない気持ち」はどこから来る? (こころライブラリー)

依存症のすべて 「やめられない気持ち」はどこから来る? (こころライブラリー)

  • 作者:廣中 直行
  • 発売日: 2013/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 


前記事に読書記録を残してあるリンデンの『快感回路』と一緒に図書館から借りたものである。これはリンデンの著書と重なる部分もあり、よりとっつきやすい内容であった。依存症のメカニズムに加え、人が依存症に陥ってしまうさまざまな背景、なぜ依存症が問題なのかについて、さらに依存症の問題にどう向き合っていくべきかについても述べてある。この本では薬物やアルコールやギャンブルといったものに加え、買い物、人間関係、性暴力などの病的な行為も依存症の対象となりうることに言及していて興味深い。
 まず導入部分で、人の心というものがいかに容易に傷つくものであるかを示した心理実験の内容が興味深かった。コンピューターの中の仮想プレイヤー2体と被験者とで擬似的にキャッチボールをするゲームを実施し、プログラム設定をいじって被験者にはボールが一切回ってこないようにするだけで被験者は傷つくのだという(所詮コンピューターゲームだという認識が被験者にあるにもかかわらず)。人間は生きる上でたくさんの傷を受けることは避けられないわけで、その傷を癒やそうとする過程で何らかの依存症に陥る危険性があるというわけだ。著者が本書で繰り返し「誰だってなんらかの依存症に陥る危険性を持っている」「依存症になるのは特別弱くてダメな人なんだという見方はやめてほしい」「潜在的な傷や問題を抱えているから依存症になってしまうので、依存症の人が抱えている根本的な傷や問題はなんだろう?と考えなくてはいけない」というメッセージを発しているのが印象に残った。

読書記録 『快感回路 なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか』デイヴィッド・リンデン著

 せっかく読書をしても内容を忘れるので何らかの方法で読書記録をつけて読み返したほうがいいとは思っているが、自分にぴったりした方法にまだ行き着いていない。主に、感想を書きっぱなしで結局ほぼ読み返さない・いったん書くとなると力み返って長文を書いて疲弊し感想を書く行為が億劫になるという問題点がある。前者の悩みはしばらくいろんなところに感想を書いて試行錯誤するしかないが、後者に関してはなるべく自分が楽なように、簡単に書き流すようにして改善に努めようと思う。

 

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 表題の本は、報酬系と一般的に呼ばれる脳の回路(飲食とか接触とか性交とかの行為を欲したり、快いと感じたりする現象に関わってるらしい)についてたくさんの研究データをもとに論じたものである。そもそも私がこの本に興味を持ったのは自分の過食傾向、しんどい時に摂食行動に依存して肥満してしまうという悩みについて手がかりを得たいと思ったからだ。この本によると、現代の過度に加工された食品は嗜好誘引性が極めて高く、食欲をバグらせてしまうリスクが高いらしい。たとえばネズミを使った実験だと、本来のネズミの餌で飼育されたグループと人間の高カロリー食で飼育されたグループを比較したときに後者のグループが明らかに適度な量をこえて食べ過ぎてしまう傾向がみられる。人間の食の変化は急激すぎて人体のしくみがそれに追いつけていないのは当然っちゃ当然で、スーパーで売り出されている加工食品を無頓着に食べていたらそりゃ食欲もバグって食べ過ぎで太りますよというようなことが分かったのは良かった。

 私は主に過食の誘惑が生じるヒントが知りたかったので摂食に関する章ばっかり読んでいたが、ほかにも薬物とかゲームとか煙草とか性交に夢中になってしまう仕組みについて面白いデータが紹介されていた。えげつないなーと思ったのが、かつて同性愛は病気とみなされ「治療」の対象とされていて、異性との性行為を好むように仕向けるべく直接脳内の報酬系を刺激して無理やり快感を与えると同時に異性と性交渉をさせるということを繰り返して(パブロフの犬みたいなかんじ)異性との性行為を好むように仕立て上げ「異性愛者になったよー」という実験をしていたというはなしである。それでもその効果は永続的なものではなかったというから、人間の行動が完全に報酬系に支配されているわけではないということなのだろうか。

 あとは性に関する章で、ボノボとかチンパンジーも自慰や性器のペッティングをするという記述を見て「キショ」と思って読むのをやめてしまった。これは私自身が類人猿・人間・性行為についてあまり良い感情を持っていないことに起因するものなので、この本の質とは特に関係ない。

 

 総じて難しい部分も多いが好奇心を刺激される面白い本だったので、また読みなおしたいです。

 

 

 

夜にしか読めない本

 バリー・ユアグローの『一人の男が飛行機から飛び降りる』を読んでいる。f:id:osenpe:20200520003546j:image

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夜に寝る直前、メラトニンを服用したあとの朦朧とした頭で読むと特に最高だ。149も話があるので、好きな話もあれば退屈な話もある。その緩急が心地よい。人は好きなお話だけで生きている訳ではないので。気に入った話のページには目印の紙を挟んで、何度も眺めている。最近の私は、効果的に殺し文句がちりばめられていてKindleで読むと"◯人がこの箇所をハイライトしました"などと表示される物語を読むのがアホらしくなってきていて、こういう掴みどころがないけど何故か読んでしまう物語を大切にしていこうと思っている。

こんにちはムルソーさん

 カミュが書いた『異邦人』の主人公ムルソーが好きだ。『異邦人』は、高校生の頃教室の空きロッカーに放置されていたのを拾って何気無く読んだのだがあっという間に魅了され、持ち主不明のその本を自分のものにしてしまった。ムルソーは訳の分からない行動をする難解で不条理な男だという評価には全く賛同できない。

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この本もそうだけど、一般的な価値観を超越した表現がされている内容を紹介する時「不条理」という単語はあまり使わないほうがいいのではないだろうか。難しくてすぐには理解できないような事柄を不条理、シュールと称して何かを分析した気になってそこで探究をストップしてしまう人がしばしば見受けられるので、もっと深く作品を評価するためには不条理という言葉を封じた方がいい気が個人的にはしている。

 個人的に 『異邦人』で印象的なシーンを挙げる。ムルソーが職場の上司にトイレ洗面台の手拭きタオルがいつも湿っていて気になると訴えてそんなのは些事に過ぎないと軽くあしらわれるシーン。ちょうど繁忙期に母親が死んで葬儀休暇を申し出る際、やや不満顔の上司に「母親がこのタイミングで死んだのは別に自分のせいではないですから」と言った後でこんな事言うべきじゃなかったかもなと反省するシーン。葬儀直後に部屋に閉じこもって気怠い日曜日をやり過ごす際、往来の人を眺めたり、古新聞を読んでクリュシエンの塩の広告を切り抜いてスクラップ帳に貼り付けたりするシーン。その他にも相手の話に退屈したら退屈している事を隠さないし、悲しい通夜の最中だろうがミルクコーヒーを飲んで番人と楽しく談笑したり、葬儀の直後に魅力的な女と会ったら性交したり、結婚したいと言ってきたマリイに対してお前のことはわりと好きだけど結婚する気はないとハッキリ言ったり、何というか全てに対して嘘や誤魔化しがないし「今」を生きている感じがする。重要なのは、彼は確かに母親を深く愛していて彼なりに母の死について喪失感を持っているということだ。だから、第二部でムルソーが殺人を犯して裁判にかけられた際、通夜の最中に談笑してたとか、葬儀中涙をみせなかったとか、葬儀直後に女とデートしたとか傍目にみてあまり悲しんでいるふうに見えなかったという事柄をもとに「ムルソーは冷酷非情で母親のことも大事にしてなかったに違いない、そのうえに殺人を犯す奴なんか死刑でいい」と周囲の人々に断定されてしまったことに私は憤りを感じた。殺人をしたこと自体は責められても仕方ないが、一般的な人の物差しで見てあまり悲しそうじゃないから人でなし、だから重い刑を課してもいい、という論法がひどいと思ったのだ。

 

そんなふうにしていったん死刑が決まったあと、特赦請願をする権利がありますよと言われたムルソーは少し迷うのだが「人生が生きるに値しないことは誰でも知っている。誰しも自分の死ぬタイミングで死ぬだけのことだ」と考えて特赦請願を却下する。

 

「人殺しとして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、それは何の意味があろう?」

 

死刑確定後にムルソーが司祭に言った言葉である。

 

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文庫本の解説に、カミュ本人が英語版『異邦人』に寄せた自序の一部が載っていたがこれは何度でも繰り返し読みたいと思った。ムルソーは、嘘のない筋の通った人間なのである。こんなふうに生きることができたら最高だ。

macabre

 昔から何回も見るお馴染みの悪夢がある。見ている最中は「ああ、また例の悪夢か」と思うのだが、目覚めると内容を全く覚えていない。それが不気味さにいっそう拍車をかけている。

 

團伊玖磨ぞうさんという童謡を作ったことで知られる)は発熱する直前、決まってかぼちゃの夢を見たそうである。

 

サマーセット・モーム『人間の絆』には、寝た時に見た夢について調子づいて話す行為をはたで聞いていて実に退屈だと述べる箇所がある。夢の話はここでおしまい。

名前の読めない友達

 何年か気にかけている女性がいる。なぜか気になる。人と交流する動機なんてそれで十分だ。Twitterで互いの投稿を見て、たまにコメントをやりとりする。私が彼女の存在を知った時、彼女は関西に住んでいた。働いたり、人間関係に倦んだり、親の無理解に悩んだり、生に楽しみを見つけられなくて懊悩したり、たまに海を見に出かけたり、好きなミュージシャンのことを考えたり、憧れの女優の話をしたり、病気をしたりしていたと思う。同様に彼女も私が愚痴を垂れながら働いたり、人を嫌ったり好いたり、健康だったり病気だったり、出かけたり引き籠ったりするさまを見続けてきたはずだ。彼女は「孤独だ。誰とも分かり合えないし、友達ができる気がしない」と言うが、私は勝手に彼女を友達だと思っている。仮に分かり合えないとして、一緒にサイクリングして、肩を並べて海を見つめたまま黙っているような友人関係があってもいいと思う。

 

 彼女は名前を頻繁に変える。その名前も単語ですらなく、ただの記号になっていることも多いのでなんと呼びかけるか迷う。まぁ、べつに呼びかけなくてもいいか。たかが名前だし。最近都会でのしんどい仕事と親に別れを告げ、田舎に引っ越したらしい。色とりどりの料理を作ったり、サイクリングをして森を眺めたり、車の運転を習ったりして過ごしているようだ。

いつか彼女と会えたらそれは素晴らしいことだし、たとえ会うことが叶わず各々の道がさらに遠く分岐していったとしてもそれはそれで素晴らしいことであろう。