buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。twitter→@khufuou2

(補足・質疑応答など)2018年9月町田康の講演

直近に投稿した3つの記事についてだが、2018年9月にあった町田康の講演のことは当時もブログに書こうとした形跡がある。っていうか、途中まで書いて力尽きている。久しぶりに自分で読み返したが、ひとつの出来事をタイミングを大きくずらして記述すると同じ人間が出力する文でもけっこう違いが出るものだとか、気をつけるポイントが変わってるなとか気づけたのでよかった。一概にイベント直後に書いた出来たてほやほやの文が良いとも言えない。長期間寝かせておいたら別の見方を深めることもできるから。

 

 当時の投稿は町田熱が最高潮だったうえにイベント直後に書いたとあって興奮が文に表れており、質問に答えてもらったりサインを貰ったりしたことでもう死んでもいいとかわざわざ太字フォントで書いているが当時の自分に「お前そんなことでいちいち死んでる場合じゃないからな」と声をかけてやりたい。

 

私が質問したのは、『くっすん大黒』『きれぎれ』『けものがれ、俺らの猿と』などで滅茶苦茶な振る舞いをする人間がいっぱい出てくるがああいうキャラクターの人物造形は何を思ってやっているのか?といったことだった。町田の回答は、世界を見るうえで善悪できっぱり分けられる二元論のような考えは自分はしない。悪を自分と違うものとは考えないし、善も自分と違うものとしては考えない。とにかく人の必死さを描くのだ。ということだった。

 

他の質問者が「自分は英語文学の翻訳者になりたいのだが幅広く色んな分野に精通しなければと思うと途方にくれてしまう」と言ったことに対する「全てに精通しようとするのではなく得意分野を見つけて極めればいいし、苦手な分野に苦心・工夫して取り組むことで見える境地もあろう。それはその分野が最初から得意な人では到達できない新たな境地に違いない」という回答がすごくよかった。

 

また別の質問者が「個を超越して書くことが大事と言ってたが、書くのが一個人である以上それは難しいのではないか」と問いかけたのに対して「一度出力された文章は個を離れるものなので、自分の手から自由になった文章を眺められる柔軟な視点を意識しておくとよい。難しいけど」と回答していたのも、なにやら禅問答のようで難しいが面白いと思った。