buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。twitter→@khufuou2

20180922 町田康の講演「文学の面白さ」@NHK文化センターさいたまアリーナ教室

 部屋を片付けていたら表題の講演を聴いた時のメモが出てきたので、当時を思い出しつつここに記す。うろ覚えや聞き違いや解釈違いなどあるかもしれないが、怒らないでほしい。

 さいたまスーパーアリーナに来たのは初めてだったが、とても大きな建物だった。有名ミュージシャンが大規模コンサートを開催するときに使われるメインエリアの他に、それよりは小さめの展示ホールとかスタジオとか色々あるみたいだった。NHK文化センターのさいたまアリーナ教室はその巨大な建物の脇っちょから小さな入り口をスルリと入ったところにあった。町田康が冗談めかして「俺もさいたまアリーナで講演するなんてだいぶ出世したな、豪儀だなと思ってたらメインの派手な入口じゃなくてひっそりした陰のほうの入り口からコソコソッという感じで入ってきた」「まぁこれで俺はあのさいたまスーパーアリーナトークしたことがあるんやぞ!と言えますからね。嘘は言ってないから」と言い、聴衆の笑いを誘っていたのは覚えている。

 

1. 町田康が本格的に書く仕事を始める前どんなだったのか

…彼は十代の頃から音楽活動をしている。17才の時に頼まれて音楽活動についての文章を書き、それが彼が覚えている限り最初の書き仕事だったのだがテキトーにこなしたと言っていた。20才の時、別の人に頼まれて美術雑誌に寄稿したのだが原稿を受け取った人は「俺に原稿を依頼したのを心底後悔するような」絶望的な表情をしていたらしい。一気に年月がとんで30才ごろ、小説を読むようになった。友達の部屋の本棚にあるのを読んだらしいが、具体的な作家としては井伏鱒二筒井康隆などを挙げていたと思う。その時点で彼は文章というものについての特別視・畏怖があって、自分は書く側の人ではないという意識であったらしい。そのうち、同人誌で日記の連載をやらないかという話を持ち掛けられた。町田康以外にも何人か声を掛けられた人があり、雑誌に色んな人の日記を載せるという趣向の企画だったそうだ。町田は「日記なら書けそう」と思い引き受けたのだが、ここで「書く」ことの中心をつかんだ。各人はその日一日に起こった出来事を自由に書くのだが、町田の日記は他の人に比べ一日当たりの枚数が多かった。彼はここでしきりに「迂回」という言葉を使っていた。すなわち、行動の目的や結末へと一直線に向かうのではなく例えば「ライブハウスへ行こうと思って駅で電車を待っていたら変な男がいて、その男が手から提げていたビニール袋には知らない店の名前が記されていたのだが…」というような書き方をするのだ。町田の自己分析によると、そういう書き方をするのは自身の「書く」ことに対する恐れが結論をズバリと言うことを躊躇わせ、言葉を連ねさせるのだということだった。

 町田は別の日に井伏鱒二についての講演をしたことがあって私はそれも聴きに行ったのだが、彼はその講演でも「迂回・韜晦(本当に言いたいことや物事の核心をなかなか明らかにしないこと)」の重要性を言っていたので「迂回」は彼の大きなテーマなのだろう。

つづく。