buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。twitter→@khufuou2

疑問

昨日読んでのめり込めた本のページをめくってみると既に厭わしい。前に気分良く過ごせた休日の行動をなぞってみてももはや快くない。これさえすれば・これさえあれば間違いなく気が晴れるというものが欲しくてしかたないが、それってもう非合法の強い薬物しか手がないんじゃないだろうか。最近あまりにも憂鬱で孤独な気分だったので、私のことをウザがらずに相手してくれそうな人に来月は私の誕生月だから10月に入ったらオメデトウのポストカードかなにか送ってほしいとメールで頼んだ。すると、もちろんそのつもりだった。というか以前何かでやりとりした折に君の誕生日を知ったからそ知らぬ顔で贈りものをする準備をしていたんだよ。サプライズみたいにしようと思っていたので少し残念(笑)と返信があった。月を指定して誕生日お祝いメッセージを送れなんて、我ながら厚かましくて間抜けなお願いをしたものだ。厚かましくて間抜けなのが私の性質なので仕方ない。ストレートに孤独で淋しいから構ってくれというのが気恥ずかしくてたまたま近くに迫っている誕生日にかこつけて手紙をくれなんて、充分恥ずかしい。不粋なお願いをして悪かった。ここのところあまりにも心細い気分なのでと弁解をすると、それは大変そう。私はそういう時は猫に癒してもらうことにしている。と言われた。私は犬と暮らしているが、犬の存在ですべての憂鬱がふきとんだら苦労していないというか、犬が可愛いことと生きてるのがつらいことはやっぱり独立した別個の事象だと思う。うちにいる動物の顔さえ見れば・子供の顔さえ見れば・家族恋人の顔さえ見ればすべての苦労が吹っ飛ぶなんて極端なことを言っている人はたまにいるが、本気でそう思っているのだろうか。そういう風に自己暗示をかけているんだろうか。

 

夫に誕生日はどう過ごしたいんだ何か欲しいものはあるのかと訊かれて、別に。コンビニで甘いものを爆買いするか、マクドナルドでハンバーガーを3つぐらい食べる。それかひとりでピザを1枚食べる。と答えたら、憐れむような顔をされた。実家の人達も私の誕生日は忘れていることだろう。少なくとも2人は誕生日オメデトウカードをくれるっぽいことがわかったので、よかった。