buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。twitter→@khufuou2

辻邦生『十二の肖像画による十二の物語』

子供の頃、学校の国語の時間に教科書や模試の文章題、国語便覧を勝手に読み耽るのが好きだった。さまざまな作家のさまざまな作品に邂逅する貴重なひと時であったと思う。

そうして読んだ作品の断片は大人になってからも脳の片隅にそっと仕舞われていて、ふとした時に「そういえば、あの話面白かったな。全部通して読んでみたくなったから本を探して買おうかな」という気持ちを掻き立てる。

そうして出会った作家や作品は心の糧となって層を成している。

たとえば吉本ばななTSUGUMI』、ねじめ正一高円寺純情商店街』、星新一魯迅筒井康隆大岡昇平、ヘッセ、サキなどがパッと思い出されるのだが特に強い印象を受けたのが辻邦生が書いた『十二の肖像画による十二の物語』である。

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タイトルの通り、十二の有名かつ印象的な肖像画に寄せてそれぞれ想像力を存分にふくらませて物語を編み、人間の内面を描出・表現していくという趣向の本なのである。

どうです?これだけでもうだいぶ面白そうでしょう?

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各テーマは上の写真のとおり。

 

で、わたしが子供の頃教科書で読んで覚えていた一編というのがフェデリゴ・モンテフェルトロ公の肖像画に寄せて書かれた第十一の物語『婪り』(むさぼり、と読みます)である。

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著しく鼻梁の突き出た、重厚な男の横顔が印象的である。

あらすじは、冬の寒い夜モンテフェルトロ公の宮殿で夜伽の延臣たちがよもやま話に花を咲かせている場にモンテフェルトロ公自身が現れ、かつて身に起こった不思議な話を2つ聞かせる、というものである。

公が子供の頃助けた野鴨の恩返しを受けて政敵による暗殺を間一髪逃れた話と、戦で兵糧攻めを受けたときに自分にだけ見える不思議なご馳走のおかげで飢えずに済んだ話である。

食いしん坊なわたしはこの2つ目の兵糧攻めのご馳走の話をずっと覚えていたのだ。兵糧攻めにあったとき公は乏しい食糧を兵隊に分けて、自身はパン一切れとて口にしなかったという美談が語り継がれているのだが、イヤイヤ実はこういう訳だったのだ、と公は部下に語る。

私は夜になると、自分の眼の前に、実に妙なものが出現するのに気が付いた。それは焼きたての牛の肩肉だったり、燻製にした豚の腿肉だったりする。時にはゼリーに包まれた鶏のむし焼きのこともある。それに盃になみなみつがれた葡萄酒とか、チーズの塊りとか、露に濡れた果物とかが出てくるのだ。私は唾をのみ、眼をこすり、舌なめずりして、それに摑みかかろうと思った。私は大声をあげて近習たちを呼び立てた。彼らにもこの饗宴にあずからせようと思ったからだ。

このご馳走の描写が実にうまそうなのですね。それに惹きつけられている公の描写も臨場感があっていきいきとしている。

しかし、この不思議なご馳走は公がひとりっきりでいる時に限って現れ、部下が来ると雲散霧消してしまうことに気づいた公は、夜毎現れるご馳走をひとりでむさぼるようになる。二度と他のものは呼ばなかった。呼べば、せっかくの饗宴が消えるのではないかとおそれたからだ。

 

これでお分かりだろう。私はただ一人で肉でも魚でもむさぼり食べていた。むさぼる…それが私の本当の姿だった。しかし誰もそう思わなかった。そう見えなかった。だが、私には分かっていたのだ。自分の本当の姿がどんなものであるかということが

美徳家だと人々から称される公は、このように自分の心にひそむ貪婪さを部下たちに打ち明ける。

人間とは複雑な化けものなのだ。表面は静かでも、本当は荒れ狂った獅子のような男もいる。反対に雄山羊のように怒りっぽくても、内心は気弱な男もいる。人間ほど混沌として始末におえないものはないのだ。

(中略)

私が宮廷でも寡欲を説くので、人々は本来、私が欲のない男だと思っている。だが、そうでないからこそあえてそう説いているのかもしれぬ

この公の述懐に本作品のエッセンスが集約されているように思う。