夏、死んでいく。新でいく。真でいく
※今回は数枚虫の画像がある。
これは潜む犬。
夜の公園にカブトムシを探しに出かけた。結局カブトムシは見つからなかったが、セミの幼虫を2匹見かけた。
抜け殻にはよくお目にかかるが、生きて動いているやつは初めて見た。
そう連れに言うと、脱皮の観察する?ときかれたので、羽化したら外に放すことにして1匹の幼虫を木の枝につかまらせて連れ帰った。
翅が青白くて美しい。
朝になったら、夜には白く柔らかで頼りなかった体はすっかり茶色くかたく光沢を帯び、力強い生命力を感じた。外に放した。元気に飛び去った。腹の形状を見るとオスらしかったが、家にいるときは一度も鳴き声を発しなかった。もう外の世界で鳴き方を覚えただろうか。
他にも、アリの大群が女王アリを囲んで大移動しているところとか、カミキリムシの交尾とか見れて面白かった。
暑さに弱くて夏になると鬱っぽくなる傾向にあったが、最近はなんとなくあっけらかんと過ごせるようになっている。服薬のおかげもあるのかもしれない。お気に入りの夏服を買って着たり本を読んだり冷房や季節の果物を楽しみにしたりして過ごすうちに夏への憎しみは年々薄らいでいく。
夏にしか読まない本、夏にしか聴かない音楽、夏にしか見ない絵、夏にしか着ない服、夏にしか食べない果物。
民家の軒先に張られたビーチパラソル、ゴムプールで遊ぶ幼児、日射しの只中でひるがえる洗濯物。昼下がりの室内で酒を飲みながら書く趣味の随筆。窓越しに物憂げに外を眺める犬。1時間に2本だけ、家のすぐそばを駆け抜ける電車。
今年は記録的な猛暑だ。灼熱でたくさんの人が死ぬ。私もまた微睡みながら死んでいく。
特集 ともだちがいない!を読んだ
露骨に性的な描写を含むので、潔癖な方は読まないことをオススメ。
きょう1日の休みのためだけに右手の爪を血豆色に塗った。派手な色なので、あした仕事へ行く前に落とさなければならない。いつもはベージュ色のマニキュアを塗って1週間もたせたりするので、これは極めて珍しいことと言える。
この三連休で英文翻訳の通信講座課題をやっつけて、答案をポストに投函することができた。
ブコウスキーの文章目当てに、柴田元幸編集の文芸誌『MONKEY』を買った。ともだちがいない、という特集なのも興味をそそる。
他にも色んな人の文章が読めるぞ
『アダルト・ブックストア店員の一日』というブコウスキーの短編。
ブコウスキーの作品は案外スラングが少ない。なぜか。スラングは仲間内の通り言葉である。ブコウスキーには仲間、友だちがいない。ゆえに彼の(自伝的)作品にはスラングが少ないーこの思考の連鎖から特集「ともだちがいない!」が生まれました。
と説明書きにはあった。本当にブコウスキーに友達や仲間がいなかったのかどうか事実は知らないが、この考察は面白く感じた。
タイトルの通り、アダルト・ブックストアに勤めるマーティの1日の仕事の様子が淡々と描かれている。
あらゆる性的嗜好の客が入れ替わり立ち替わりやってきたり、騒動が起きたりする。
あそこに毛のない女のポルノビデオを所望する若者、剃刀で雑誌から写真を切り取る男、店中のディルドを物色して「黒いのを置いとかなきゃダメよ」と説教する女の子、ダッチワイフにはかせる黒いパンツを買う男、手の形をしたオナホールを20ばかしも購入する男。映像機械の前ではマスをかく男の姿が丸見え、アーケードルーム(25セントで短篇エロ映画が見られる小部屋のこと)ではコインの投入口が誰かがぶっかけた精液でベトベトだの、アーケードルームには怪しげなカップルが棲みついてフェラし合ってると苦情が入るだの、クソマニアが大量のクソを残して行っただの、ハプニングに事欠かない。
マーティは動じることなく、客の応対をしてあれこれ人形や下着やカツラを客に勧めたり、コインの投入口を雑巾で拭いたり、クソを新聞紙で包んでトイレに捨てたりする。とんでもない内容に違いないが、淡々とした冷静な筆致で、過度に扇情的になることもなく文章を組み立てる様は舌を巻くほかはない。
こんなに放埓で性的なことをあけっぴろげに描いてなお「ふん、こいつ突っ張ってやがる」的な鼻持ちのならない印象を与えず、スッと読ませる作家はほかにあまり知らない。こんな変なやつらがいてさぁ、びっくりするだろー?ゲーッて感じだろー?俺なんかはそんなことしないけどね、勘弁してよー。みたいな気取りや突き放しが一切無いからだと思う。ブコウスキーは高邁ぶった態度や虚飾的な態度はひどく嫌うが、メインストリームから外れた社会的立場で素直かつ誠実に生きている人たちに向ける眼差しは、非常に優しい。
話の終わりの方で夜番のハリーと勤務交代するときに、仕事は気に入ったかという話になり「悪くないよ」「まずいとこもあるけどさ、全体としてはいいよな」と言葉を交わすところが良い。勤務を終えたマーティは夕食にステーキを食べるべく街へ繰り出すところで話は終わる。
酔いどれ
金曜は久し振りに飲み会に行きました。
私がどうしても酒を飲みたくてたまらなくなったので職場の人数名を誘って宴会をセッティングしたものの、元々人付き合いに長けている訳でもない私はなんだか緊張してきたので『ブコウスキーの酔いどれ紀行』を読んでイメトレ。
原題はシェイクスピア・ネヴァー・ディド・ジス。変わったタイトルだなと思ってたら、ブコウスキーはシェイクスピアが嫌いだったそうで「鼻持ちならない上流階級野郎のたわごと」と貶すのが常だったということだ。権威あるものだろうと嫌いなものは嫌いだとハッキリ言うところがブコウスキーらしくて面白い。原題にはそんな彼の矜持の念が表れているとあとがきには書いてあった。
ブコウスキーがTV出演や詩の朗読するために祖国ドイツを旅するんですけど、ワインを瓶でラッパ飲みしながら司会者に絡んで番組を引っかき回したり、詩の朗読も酒をあおりながらでかなり型破りで痛快なんですよ。
それを俺すごいだろ?って感じじゃなくて淡々と描くので味わいがあります。
常に二日酔いで、観光スポットでも「お城?モスク?くそくらえ!」って毒づいててかなり面白いです。
放埓さがありつつも、他人を見る目にはある種の温かさがあるのもブコウスキーの魅力。鼻持ちならない皮肉っぽさが無いから、スッと心に入ってくるのかもしれない。色んなものに火をつけるのにハマっている少年マイキーや、旅の途中で色々語りあった青年たちへの眼差しが温かだったことが特に印象に残っている。
規律に縛られていやになった人にぜひ読んで欲しいです。
開会前に一人で行ったバーで飲んだ桃のフローズンカクテル。
バーテンが目の前でシェイカーをシャカシャカ高速で振るのを見るとなんか面白くてわろてしまうので困る。
グラスのふちに塩をつけるカクテルがあるが、あれはどうやってつけてんのかなと思っていたら、半分に切ったレモンの断面でグラスのふちをなぞり果汁で湿らせた上で、トレイに盛った塩の上にグラスを伏せてつけていたのでなるほど〜と思った。
二次会で飲んだ日本酒。日本酒の飲み比べセットが大好き。
三次会で飲んだ白ワインのサングリア。
この後急速に眠くなり、タクシーで家に帰った。
運転手は気のいい人で、今週は特別暑くなるから水分とって熱中症に気をつけてくださいね〜と言ってた。
酒飲むと楽しいね。また飲もう。
自転車に乗るように
精神を保って生活していくというのは自転車のバランスの取り方に似ているなと最近よく思う。
体をかたくしてその場に止まっていたらぶっ倒れてしまう。常に左右に少しずつブレながら動き続ける必要がある。
生活においても例えばひとつのカフェ、ある本、ある音楽、ある感情に触れてしっくりいったからといってそのしっくり感が永続するわけではない。そしたらまた別の場所を探したり、取っ替え引っ替え違う本や音楽に触れたり、感情を変えたり活動を変えながら人生をやり過ごすのだ。それが面倒くさい、もうコレで行く!と決めたらそれだけで大丈夫になれば良いのに。と思ったこともあるが、まぁそれも人生の玄妙・味として受け容れましょう。という気持ちになっています。今。
そんなおれはこの文章を松本駅のスタバで書いているぜ。膝に目を落とすとズボンの膝がやけにラメで光り輝いている。今まで気づかなかっただけで、もともとラメ加工のズボンだったのだろうか。そんなはずはないのだが。
と膝を手で払いながら思っていると、近隣の席に声と態度のでかい外国人グループがきて耳障りだからもう茶は止して大学へ行くぜ。
バイ。
サリンジャーの本を持ってキャンプへ
早くも梅雨が明けてしまったらしい。
サリンジャーの新訳の本が届いたのでキャンプに持ってきた。
有名な『ライ麦畑でつかまえて』に登場するホールデン・コールフィールドにまつわる短編、サリンジャーの作品ではお馴染みのグラース一家の兄弟姉妹や、『バナナフィッシュにうってつけの日』で自殺してしまうシーモア・グラースの幼い頃の思い出にまつわる話などが収められている。
若者たちの繊細な心の機微や会話の軽妙さを味わうことができるが、私個人としては野崎孝の翻訳がよりいっそう好きである。ちょっと癖があって、時代がかった文体が病みつきになるのである。これに慣れてしまうと、他の訳者による現代的でアクのない翻訳が物足りなく感じてしまう。
そんなわけでテントで寝転びつつ本を流し読みしていたが、外では料理中の夫が犬のいたずらを叱りつける声がのべつ幕なしに聞こえており私は読書を諦めて外に出た。
鮭の切り身が奇妙なオレンジ色の物体に感じられて、じっと見つめているのにもお構いなく夫は手際よく調理を進める。
あっという間に鮭とアサリのアクアパッツァができた。美味。
湖畔で焚き火を見ながら酒を飲んでいると、小雨が降ったり稲光が走ったり蛍が飛んだりと盛りだくさんであった。
夫とはとりとめもない話をした。生きている人間のうちどれほどの人が適材適所にハマって生きていけるのかという疑問や、キャンプグッズや、ボートを漕ぐ話などについて。
2018年6月30日、木崎湖の湖畔にあるキャンプ場にてしるす。
辻邦生『十二の肖像画による十二の物語』
子供の頃、学校の国語の時間に教科書や模試の文章題、国語便覧を勝手に読み耽るのが好きだった。さまざまな作家のさまざまな作品に邂逅する貴重なひと時であったと思う。
そうして読んだ作品の断片は大人になってからも脳の片隅にそっと仕舞われていて、ふとした時に「そういえば、あの話面白かったな。全部通して読んでみたくなったから本を探して買おうかな」という気持ちを掻き立てる。
そうして出会った作家や作品は心の糧となって層を成している。
たとえば吉本ばなな『TSUGUMI』、ねじめ正一『高円寺純情商店街』、星新一、魯迅、筒井康隆、大岡昇平、ヘッセ、サキなどがパッと思い出されるのだが特に強い印象を受けたのが辻邦生が書いた『十二の肖像画による十二の物語』である。
タイトルの通り、十二の有名かつ印象的な肖像画に寄せてそれぞれ想像力を存分にふくらませて物語を編み、人間の内面を描出・表現していくという趣向の本なのである。
どうです?これだけでもうだいぶ面白そうでしょう?
各テーマは上の写真のとおり。
で、わたしが子供の頃教科書で読んで覚えていた一編というのがフェデリゴ・モンテフェルトロ公の肖像画に寄せて書かれた第十一の物語『婪り』(むさぼり、と読みます)である。
著しく鼻梁の突き出た、重厚な男の横顔が印象的である。
あらすじは、冬の寒い夜モンテフェルトロ公の宮殿で夜伽の延臣たちがよもやま話に花を咲かせている場にモンテフェルトロ公自身が現れ、かつて身に起こった不思議な話を2つ聞かせる、というものである。
公が子供の頃助けた野鴨の恩返しを受けて政敵による暗殺を間一髪逃れた話と、戦で兵糧攻めを受けたときに自分にだけ見える不思議なご馳走のおかげで飢えずに済んだ話である。
食いしん坊なわたしはこの2つ目の兵糧攻めのご馳走の話をずっと覚えていたのだ。兵糧攻めにあったとき公は乏しい食糧を兵隊に分けて、自身はパン一切れとて口にしなかったという美談が語り継がれているのだが、イヤイヤ実はこういう訳だったのだ、と公は部下に語る。
私は夜になると、自分の眼の前に、実に妙なものが出現するのに気が付いた。それは焼きたての牛の肩肉だったり、燻製にした豚の腿肉だったりする。時にはゼリーに包まれた鶏のむし焼きのこともある。それに盃になみなみつがれた葡萄酒とか、チーズの塊りとか、露に濡れた果物とかが出てくるのだ。私は唾をのみ、眼をこすり、舌なめずりして、それに摑みかかろうと思った。私は大声をあげて近習たちを呼び立てた。彼らにもこの饗宴にあずからせようと思ったからだ。
このご馳走の描写が実にうまそうなのですね。それに惹きつけられている公の描写も臨場感があっていきいきとしている。
しかし、この不思議なご馳走は公がひとりっきりでいる時に限って現れ、部下が来ると雲散霧消してしまうことに気づいた公は、夜毎現れるご馳走をひとりでむさぼるようになる。二度と他のものは呼ばなかった。呼べば、せっかくの饗宴が消えるのではないかとおそれたからだ。
これでお分かりだろう。私はただ一人で肉でも魚でもむさぼり食べていた。むさぼる…それが私の本当の姿だった。しかし誰もそう思わなかった。そう見えなかった。だが、私には分かっていたのだ。自分の本当の姿がどんなものであるかということが
美徳家だと人々から称される公は、このように自分の心にひそむ貪婪さを部下たちに打ち明ける。
人間とは複雑な化けものなのだ。表面は静かでも、本当は荒れ狂った獅子のような男もいる。反対に雄山羊のように怒りっぽくても、内心は気弱な男もいる。人間ほど混沌として始末におえないものはないのだ。
(中略)
私が宮廷でも寡欲を説くので、人々は本来、私が欲のない男だと思っている。だが、そうでないからこそあえてそう説いているのかもしれぬ
この公の述懐に本作品のエッセンスが集約されているように思う。
2018年6月末の日記
6月に入って好きな酒を飲めなくなるぐらい調子が落ち込んだ時期もあったが、
気力を振り絞ってキャンプや好きな作家の講演会や音楽ライブに行ったりしているうちになんとか持ち直してきた。
やっぱり生活というのは自転車に乗るのと同じようなもので、怖がって止まろうとすればかえってバランスを崩して剣呑になるしなんとか続けていくためには常に小刻みにでも活動・躍動しているべきなのだろう。
ベスト・エッセイ2018を入手。
目当てはやはり町田康の文だが、他の作家の文もおもしろい。
帯の文。
どの随筆も短めの文章から構成されているし、雑誌や新聞に載せられただけあって漫然とページをめくるであろう不特定多数の読み手を効果的かつ簡潔に惹きつけるための工夫がなされている。
書き手もそれぞれ違うので、色々な感性や文体を楽しめる。
エッセイ記事を目当てに幾多の雑誌や新聞を買い漁るのはなかなか難しいので、こういういろんな作家のエッセイを集めた本というのは嬉しい。存在を知れて良かった。
町田康さんの音楽ライブ@吉祥寺スターパインズカフェ
2018年6月22日金曜に町田康さんの音楽プロジェクト『汝、我が民に非ズ』のライブを聴くために吉祥寺まで行ってきたので、その時のことを申し上げる。
ずっと田舎住まいの私は都会の音楽ライブというものに出かけるのが初めてなので不安でたまらず、友人に
「いったい吉祥寺という街は安全なのか。パンクスにカツアゲされたり身ぐるみをはがされたりしないだろうか」
「町田康といえばパンクロッカー。そのライブというと、やはりステージ上でギターをへし折ったり星条旗を燃やしたりするのだろうか」
と大真面目に訊いて笑われるなどした。
特急あずさに乗り道中iPodで音楽を聴きながら町田康の『東京飄然』を読んでいると、甲府で隣の席に乗り込んできた50、60代と思しきマダムが急にお菓子のビスコを目の前に差し出してきた。食べろということらしい。慌ててイヤホンを外し、礼を言いながらビスコを口の中に入れる。
もさもさする。口の中の水分が奪われる。目を白黒させながらビスコを嚥下し、改めてマダムに礼を述べると
「ビスコ懐かしいでしょ。あたしよく食べるのよ、素朴な味がするから」
と笑った。
それからなんとなくそのマダムと雑談する雰囲気になり、甲府から立川までの約1時間とりとめのない話をして過ごした。どこの出身かとか、仕事はなにかとか、今まで住んだことのある土地とか、なにをしに東京へ行くのかとか。
あとはお互いが読んでる本を見せっこした。マダムは畠中恵の『つくもがみ貸します』を読んでいた。なんとなく暇つぶしに選んだ本で、好きな作家は塩野七生や司馬遼太郎だという。塩野七生は実物はカンジワルイんだけど文章は面白いのよ〜、などという話が聞けておもしろかった。町田康のことは知らないと言っていたので、
「面白い作家です。こないだ甲府の山梨県立文学館で井伏鱒二について講演をしていたので、聴きに行きました。きょうはその人が吉祥寺で音楽ライブをするので聴きに行くのです」
と説明した。
「あらいいわね。音楽ライブってことは、こう(こぶしを頭の横で振り上げるそぶりをしながら)ノリノリな感じでしょ?張り切っちゃうわね」
とマダムは応じた。
その後も本のことなどいろいろ話しているうちに降りるべき立川に着き、マダムは新宿まで乗っていくとのことだったのでお互いに話せてよかったですね、と挨拶し名前を教えあった。
「あたしはオオキって言います。ちょくちょくあずさに乗るから、また行きあう事もあるかもしれないわね」
「私はオサナイといいます」
「小さいに山と書いて、内かしら?」
「よくわかりますね」
という会話を別れぎわにかわした。
駅のホームに降りて歩きながら今降りた車両の窓の方を見たらオオキさんがこちらを見ていたので、手を振ってみせたら向こうも笑顔で手を振り返してくれた。
さて、なんだかんだで16時には吉祥寺に着いたが友人のNさんとの待ち合わせ時間である18時まであと2時間ある。
事前にネットで調べたり人に聞いたりして、待ち合わせまでは水タバコ屋やカフェをハシゴして過ごそうと決めていた。
まず水タバコ屋さんの「はちグラム 吉祥寺店」へ。
パイナップルとキウイのフレーバーを頼んだ。水タバコ代プラスチャージ代を払えば、缶入りの飲料は飲み放題というシステム。いつか飲んでみたいと思っていた飴湯があったので飲んでみた。
あったかくてとろみがある甘い生姜味の液体である。気に入った。
水タバコ屋さんってなんとなく頽廃的な雰囲気あってドキドキしませんか。私だけ?店員のお兄さんは民族調のゆったりした服装がよく似合っていて、接客もフランクでこなれていて興味深かった。
説明とかも立て板に水って感じで流暢だし丁寧だった。
「いらっしゃーい。今日はどうする〜?◯◯のフレーバーね。りょうかーい。味が薄いとか濃いとかあったら言ってね〜。」みたいな口調が面白かった。
スーパーやコンビニとかの接客もこれぐらいのノリでいいと思うんですよね…。
で、はちグラムには漫画も置いてあってその中に大好きな『ヒストリエ』があったのでおお、と思って読み耽っていたらあっという間に2時間経っていて、
残念ながらカフェに行く時間はとれなかった。
うちにヒストリエ全巻あるのに…
それぐらいヒストリエは面白いです。
みなさん読みましょう。
ライブハウス・スターパインズカフェに着いて、ほうほう。これが話に聞くライブハウスか。と思って写真を撮ったりしてぼんやりしていたらNさんがやってきた。妙に笑い転げている。
私の佇まいとか風体がなんとなく滑稽だったらしい(首にスポーツタオルを巻いて、小さいサコッシュをぶら下げていた。ネットでライブに行く時の作法を自分なりに調査して身なりを整えたのである。泊まりの荷物を入れたリュックサックはあらかじめ駅構内のコインロッカーに預けてある。気合十分である。)
整理番号順に並び、会場に通されてビックリした。会場にイスがぎっしり並べられているのである。
音楽ライブというものは観衆はみんな立った状態で行われるものだと思っていた。色んな音楽ライブに行き慣れているNさんの見解によると、町田康のファンは年齢層が幅広く、高齢の人もいるので疲れないように配慮しているのかも。とのことである。確かに客層は若そうな人から年配の人まで幅広かったように思う。
Nさんによると、高円寺ジロキチで以前行われたライブの際はスタンディングの席もあり、ノリのいい金髪?のパンクっぽい兄ちゃんが激しくノリながら演奏を聴いており町田康も「オオッ」という感じで喜んでいたそうだ。ちょっと見てみたかった。
そんな話を聞きながらカツサンド(美味かった)を食べハイネケンの瓶入りを飲んで開演前のひと時を過ごした。お店のスタッフの接客は行き届いており、まめに巡回して注文をきいたり客を席に導いたりしていた。
そうこうしているうちにライブの幕があがる。町田康は白のティーシャツに濃い色のジャケットを着て、ジーンズを穿いてたと思う。カッコよかった。
アンコールも含めて21曲ぐらい演奏してた。
どの演奏も良かったが、特に最初の3曲がノリノリな感じで私は気に入った。
2〜3曲連続で演奏して町田康の喋りがあってまた演奏にうつる、という流れであった。
町田康は歌詞を暗記しているわけではないのか、堂々とカンペを10枚以上(たぶん)めくって見まくりながらもノリノリで踊りながら歌うスタイルで、かなり面白かった。
歌詞は口語や古語が炸裂しており、声も叫んだり震わせたり囁いたり低音から高音まで自由自在で圧倒された。
歌いながら顔をくしゃくしゃにしたり笑ったりしてくるくる変化する表情にも惹きつけられた。
楽器の演奏陣の音も迫力があって、自然に体が動くような感じだった。Nさんが言っていたように、確かに座ってるよりは立って踊りながら聴いた方がより楽しそうである。
町田康は一曲おわるごとに
「ドーモアリガト」とボソッと言っていた。あと、歌唱中の情熱的な感じとトーク中のボソボソ話すかんじの落差が面白かった。
曲の合間のトークもボヤきあり告知あり日々の出来事の述懐ありで、町田節全開という感じで面白かったです。
あとで自分で読み返してニヤニヤしたいのでトークの内容も記録しときます。
「(氏が原作を手がける『パンク侍、斬られて候』の映画化を受けて) インタビュアーってほんとアホなことばっかり訊きよるんですよ、一言で映画を言い表してくださいとか。ほんで、雑誌にインタビューが載ったのをみると答えてるこっちがアホみたいに見えるんですよ。うまいこと編集されてるから。例えばシシャモについて語ってくださいみたいなくだらない質問をされて、文書でのやりとりだと特に語ることはありませんで切り上げられるけど、人間相手に対面してるとなんとか話をひねり出さなきゃいけないみたいな妙な気遣いが生じて頑張って喋ってしまう。結果として完成された記事を読むと、俺がひとりでシシャモについて熱心に語ってる変人みたいに見えてしまう」
「返信ハガキの宛名とか、やりとりするうちに“御”や“様”をなんべんも付け足したり消したりしてアホらしくてめんどくさいですよね。礼儀にがんじがらめにされてる感じが」
「ネット見てたら広告で “夏でもかぶれるニット帽” っていうフレーズがあって気になった。それを応用すると、暑くても飲めるコーヒー…それはアイスコーヒーか。いや、ぬるいホットコーヒーかな…」
「極厚インソールっていう商品を見かけたんですけど、インソールごときに極っていう字を使うの仰山すぎひん?極道の極ですよ?」
「創作レストランという看板を見て閃いたんですが、頭に創作とつけるとなんでも格好がつく気がする。だから僕らのバンドは創作パンクを名乗ります」
「新譜がもうすぐできます。本当です。ここにいる人の8割は信じてないと思うけど、いや、本当に出るんです。出ようとしている。神の国は近づいたみたいな感じで、もうすぐでるんです」
などなど、冗談なのか真面目なのか判りかねるどうでも良すぎるところに拘りまくったトークがとびだすところは『テースト・オブ・苦虫』シリーズに代表されるエッセイ群でおなじみの町田節で、お客はみな腹を抱えて笑っていた。
そんな中で特に心に残ったのが文学についての話。
「どうしたら小説家になれますか?とよく訊かれるが、はっきり言って僕にはわかりません。だけど、僕が自分の身を振り返ってこれだけはやってきたと自信を持って言えるのは、気に入った同じ本を百ぺんも千ぺんも繰り返し読んできたということ。読書ってね、本の数を競ったり速読にこだわったりする必要はないんです。好きな本が一冊あれば、それをなんべんもなんべんも読み返すことで拓けてくる新しい境地がある。」
私自身は数をこなす読書スタイルではなく愛読書を繰り返し読み込む読書スタイルなのをちょっと体裁悪く感じているきらいがあったのだが、この言葉を聞いてパッと目の前がひらけた気がした。
「僕は何もすることがなくて家に引きこもってた時期に、『神々のたそがれ』っていう地獄のような映画を1日に4回ぐらいみたことがあって(注:めっちゃ長くて白黒で、気がどうにかなっちゃいそうな映画らしいですね…)その時はもうほんとに気がおかしくなっちゃってね、ってそれはまあいいんですけどそういう風に同じものを何度も味わうことで見えてくる景色もあるわけですよ。
今日われわれのライブを観に来たみなさんも一回観たらもういいやなんて思わずに、何度でもライブを観に来てくださいということです!」
客席爆笑。
一番最後にはINU時代の名曲『つるつるの壺』を演ったのでみんな立ち上がって大喜びでした。さすがにこの曲はカンペ見てなかったですね。たぶん…
しかし、こういうライブの一度舞台からはけてアンコール×2回の流れっちゅうか様式美はなんなんですかね。一回で全曲やってスパッと終わってもいいのにね。とNさんと話したのは余談。
楽しかったー。
ライブ後べつの友達と会って飲んだのだが、やはり首にタオルを巻いた身軽すぎる風体と佇まいを笑われた。なんなんだ私は珍獣か?
好物のフライドポテトとピザを食べられて満足した。犬の話などで盛り上がった。
大好きなビジネスホテル泊もできたのでよかった
武蔵境駅の雰囲気、かなり好きな感じでした。ロータリーの公園っぽいとこにベンチがたくさんあって仕事帰りのサラリーマンがポツポツ座ってスマホいじったりしてるとことか、謎っぽい建物の図書館とか。
町田康さんの講演会in甲府~井伏鱒二の笑いと悲しみ
町田康が井伏鱒二の文学について講演をするというので、聴きにいきました。
何回か東京に行く機会が重なったので長距離移動についての感覚が麻痺して
「とーきょーに比べたらこーふなんて近い近い」
というノリで出かけたのだが、特急あずさで1時間以上かかるので普通に遠い。
交通費もかかる…。
山梨県立文学館。
山梨県ゆかりの文筆家、井伏鱒二や太宰治の原稿や書簡など各種資料が展示されているようだ。
広場がなかなかよさげ。芝生で寝てる人、いいね。
これこれ、講演会のポスターね。私以外にもポスターにスマホのカメラを向けている
人がぽつぽつ居て、あなたも町田康ファンなんですねウフフ。と思って見てました。
聴衆はやはり老若男女さまざまな層の人が来ているな、という印象。
運よく最前列の席に滑り込むことに成功。
隣のご婦人方が町田康の作品や音楽活動などの話に花を咲かせていて
「ぶっちゃけ井伏鱒二の話じゃなくて町田さんご自身の話が聞きたいですよねオホホ」
と言ってて、やれやれと思ったがまあ気持ちは分からないでもない。
ちなみに町田康の講演はたいへん面白く、終演後くだんのご婦人方も
「井伏鱒二の作品読んでみたくなりましたね~」と言い合っていたので
良かったのではないでしょうか。
ちなみに私自身が井伏鱒二に抱いてきた認識というのも
「なんや知らんが私の大好きな太宰治の師匠で、町田康もリスペクトしてるらしいからちょっと作品読んでみるか」ぐらいのものなので、他人の不見識を笑える立場ではない。
井伏鱒二の作品をいくつか読んでみて抱いた感想は、情景描写がうまくて自然とか
人物の対話とか目の前に浮かぶようで非常にこなれた印象を受け、
ひっかかりなく快適に読めるのだが全体としては作者がなにを言いたいのかあまりわからない、主題が掴みにくい…というものである。
なので、今回の講演会を聴きに行ったのは演者の町田康のファンだからというのも
もちろんあるが、井伏鱒二の作品の読み解き方や魅力を知りたいと考えたからでもある。
まず一番最初に講演会のながれについて説明があった。
1.井伏鱒二との出会い
2.どこに惹かれるか
3.井伏鱒二の作品の良さ
4.モヤモヤした雰囲気の背景に何があったのか
5.いまの時代に井伏鱒二を読む意義
…町田氏のことだから喋りすぎて時間配分が予定通りにいかなくて
最後駆け足になるんだろ~な~と思っていたら本当にそうだったので
内心可笑しかったが、そこはご愛嬌。
1.導入部分で井伏鱒二との出会いについて。
10代の音楽活動を始めた頃に友人宅の本棚に並んでいたのを手に取ったのが
最初の出会いだった由。
「まぁ僕もいまや伝説のパンクロッカーと言われていますが」といたずらっぽく言ってたのでニヤニヤしてしまった。
「当時まわりの音楽やってるひとたちって、耳で聞く音優位派がはんぶん、言葉優位な文学派がはんぶんという印象でしたね。仲間の部屋に遊びにいくと本棚には小説が沢山ならんでいる訳です。僕なんかは断然音優位派だったけれども、そういった環境に影響されて自然と文学作品に触れる機会が多くなっていました。そんな流れで井伏鱒二の本も読み始めたのです」
町田氏の発言をうろ覚えで書き出しているので細かい言い回しの違いや齟齬がありますが大体こんなことを言っていたと私は理解しましたってことで、よろしく。
最初に読んだ『珍品堂主人』がガロのつげ義春の漫画に雰囲気が似ているなと感じたそうだが、何のことはない、つげ義春が井伏鱒二の作品に影響を受けていたわけである。
「(音楽を例に出して)たとえば大槻ケンヂが俺に似た歌い方をしてたっていう人がいたけど、他人から大槻ケンヂみたいですねって言われたらイヤイヤ逆じゃ!こっちが先じゃ!みたいなね?
キャプテンビーフハートがオシリペンペンズに似てる!っていう奴がいたら
いやいやキャプテンビーフハートの方が先じゃ!みたいな?…なんかマニアックな話してスミマセン。一応いっとくと僕自身は大槻ケンヂが僕の真似してるとは思ってませんから!」
ここで笑いが起きていた。
あとなんだろう、井伏鱒二は晩年(1980年代後半~1990年代初期?)TVインタビューを受けていたようで、その物真似をしていて面白かった。
「井伏鱒二はもうおじいちゃんで、いかにもこう井伏鱒二ですという佇まいで座っている訳です。で、インタビュアーの若い女性アナウンサーは恐らく井伏鱒二の作品とか読んだこともないし知らない、そんな感じなんです。それで相手がおじいちゃんだからっていうんでアホみたいな、わけわからん人に相対するような、幼児にするような感じでしょうもない質問するんですよ。カラオケってご存知ですかぁ?ってアナウンサーが質問したら、こう(井伏鱒二の真似らしく、顔をぎゅっと顰めて半目になりつつ
上体を傾け掠れ声をつくって)カラオケぇ~?桶をどうにかするのかねぇ~」
会場爆笑。
「それで、最後にアナウンサーが“まだ小説お書きになるんですか?”って訊いたらね、井伏鱒二はこう答えるわけです。(また顔真似をしながら)うん…馬鹿なことばっかりしてぇ~(と、素に戻り)僕はそれを聞いてシビれましたね。ヨボヨボになって死ぬ直前までオレは馬鹿なことばっかりしててねぇって自嘲しながら物を書き続けるなんざ、最高じゃないですか」
また会場爆笑。
2&3.井伏鱒二の作品を「屈託」というキーワードで表現していた。
屈託と言うのは、出口が無い気持ち。自分が世に出られない、自由になれない、自分の中でひたすらうずまくような気持ち。
井伏鱒二の代表作『山椒魚』なんかはまさに狭い穴ぐらから出られなくなった屈託の象徴のような話である。
町田氏が井伏鱒二をよく読んでいた1987年ごろというと世はバブル&バンドブーム。
町田氏が活躍できるような場はなく、やることがなくてひたすら自宅にこもっていた時期だったそうだ。その頃の自身の鬱屈した心情が、『山椒魚』の“土中三年”の気分にシンクロ・共鳴したのだという。
また、「屈託」と同時に「曲げ」も井伏鱒二を知るうえでは欠かせない要素だ。
「屈託っていうのは、滑稽味、ユーモア、味わいのカーブ。曲げにつぐ曲げ。
井伏鱒二の作品って、表現が直接的じゃないんですよ。主題を明言しない。
愛のすばらしさー!とか、平和の重要性ー!とかみたいに、テーマを明確に主張したりはしない。なんちゅうのかなあ、一般的に小説を書くときは設定とか登場人物の性格とか状況とか、そういうのに作者の主張を投影させるもんだけど、鱒二の場合はそうじゃなくて文章全体ににじみ出ているわけです。
表現が屈曲・迂回するんです。
そうだなあ、歌でいうと直球表現が演歌やブルース(哀歌)だとしたら、なんだろう…レゲエとかになるのかな?」
おっ核心にせまってきた。ところどころ音楽に喩えるところが、さすが町田氏。
なぜ曲げるといいのか。
曲げることによって何が生まれるのかというと、ユーモアと飄逸。
屈託とユーモア、滑稽味と物悲しさが渾然一体となっておもしろさが生まれるのだという。
ここで、実際の作品を適宜引用して朗読しながらの解説にうつる。
『ジョゼフと女学生』
ここでいきなり町田氏が、鱒二って勉強できない女の子に男が勉強を教えるシーンを色んな作品で描いているんですよ。鱒二は勉強できない女の子に教えるフェチなんです。
と言ったので笑ってしまった。確かに。
この作品でも屈託や曲げが多用されており、異性交遊の話が急に貧乏の話になったり、
文体がわざと不自然な翻訳調になったりする。ここに可笑しさ・ユーモアが生じるわけである。
4.町田氏の解説によると、当時の時代背景にプロレタリア文学の台頭・文壇の左傾化があったという。文壇の左傾化に与したくない、そういうのに縛られずに自由に表現したい、時代が左傾化しろと圧力をかけてくるけれど左傾化できない・したくないという葛藤がこのような表現方法を生み出したのだと。
『朽助のいる谷間』
では、ダムの底に沈む村に棲み処があった鳥たちが集っているところへ石を投げて残酷にも追い払うシーンを取り上げた。
鳥は元の棲み処を追われるものの、将来的には別のよい棲み処をみつけてけっこううまく生きていけるかもしれない。
話の展開としては、「曲げ」と「直し」が次々と重なりかんたんに決着することなく続いていく。人生も書くことと同じで、曲げと直しが決着せず延々と続いていくのだというメッセージが読み取れるとのこと。
5&質疑応答
・実際に読み手を意識して小説を書いていると「曲げる」のはこわい。直接的に主題を表現し、結論を急ぎたくなってしまう。「曲げる」のはそんな書き手自身の恐怖心との戦いだ。しかし、決着にむかって最短のルートを辿るような小説だけをよしとするのは如何なものか。「曲げ」によって生じる味わいを大事にしていきたいとのこと。
・井伏鱒二の「屈託」と「曲げ」の文学から何を学べるか
→時代の空気に染まらないこと。発散せず吸引する。(現代は発散することをよしとする風潮に傾きがちだが、吸引することもだいじなのではないか)
対象をしずかに観察すること。過剰にせず、引き算をしていくこと。
・井伏鱒二を読んでて、「屈託」「曲げ」ばっかりだと嫌になることはないのか?
もっと明快にして欲しくなったりしないのか。
→ならない。読み手が嫌にならないように絶妙なバランスをとっているのが小説家のすごいところ。文章というのはスローガンではない。
純粋な「いい」も純粋な「いやだ」も実際には存在しないので、そういうのが渾然一体となっているさまを表現しているところがいいと思う。
「たとえば、おいしい牛乳という名前の商品がおいしいとは限らないじゃないですか、ネスカフェゴールドとネスカフェゴールドエクセラがあったらどっちが良いのか、みたいな…」
って、まったくたとえ話がピンとこなくて笑った。
・町田氏が井伏鱒二の文学から受けている影響はあるか
→影響受けてるとかいうのも畏れ多いレベルでリスペクトしている。井伏鱒二は仰ぎ見る山脈、山の尾根のような存在。しいて言えば、自分は大阪の人間やから過剰に足していく方向に走りそうになるので、「抑制」を心掛けるようにしている。
・町田氏と井伏鱒二の文学の共通項は?
→哀愁とユーモアが渾然一体となったところ。その境地に近付きたい。
レポート以上です。
講演できいた内容をより深めるために文学館内の展示も閲覧できたらよかったのですが、体調的に余力がなかったのでそのまま帰宅。
「人んちの本棚が見たい」その⑥
人んちの本棚を見せていただきわたくしが満足する企画、第6回目です。
今回紹介するのは
はよしさん(@hayo_C )です。
よろしくお願いします!
はよしさんのコメントはカギカッコ、
わたしの感想は地の文です。
おお!小説、時事問題、世界史、サイエンス、戦争学、実用書、資格など色んなジャンルの本が揃っています!
珈琲の本にちょっと和みました。
世界を俯瞰的に観察し、あらゆることに関心を持ち冷静に学びを深めている方なのだなという印象を受けます。
個人的に気になる本ばっかりで、
一冊一冊手に取りたい衝動に駆られます。
文学作品のラインナップだけみてもサロメ、オーウェルの動物農場、中島敦の山月記、伊藤計劃、中島らも、孫子、高村光太郎詩集、村上春樹…古典・SF・詩・現代小説とバラエティに富んでいます。
しかし、本棚を見せてもらっている方々の村上春樹作品の所持率高いな…。
むかしノルウェイの森を読んでキェェェェエーー!!!となって以来(反発をおぼえつつも定期的に読み返したくなる、不思議な本です)村上春樹の作品は読んでないのですが、私も新たに何か読んでみようかしら。
変わりまして、ここは机の上かな。
聞く力、日本語の使い方、電話応対、投資信託、秘書検定参考書、物理学、宇宙、数学などさまざまな分野の学術書、実用書、啓発書、辞書類が並んでいます。
知的活動の活発さがうかがえます。
圧倒されます。
めっちゃ頭使ってそうです。
熱いコーヒーと甘いお菓子を差し入れたくなります。
そしてちょこんと座っているぬいぐるみ、フィギュアに和みます。
「実家に出戻りしたので、既存の本棚を間借りしています。
入りきらないので机上台にも本を並べています。実はこれ以外にも山積みになっている本があります。
改めて俯瞰すると、面白そうな本ばかりでさすがわたしの本棚です。」
ですね〜
写真に写っていない山積みの本も気になるぞ!
私もちゃんと世界のことを勉強しよう…という気持ちになりました。
はよしさん、どうもありがとうございました。