buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。

町田康と十返舎一九@池袋コミュニティカレッジ

池袋にて、町田康さんが「文学と笑い」をテーマに講義をするというので聴きに行った。題材は十返舎一九東海道中膝栗毛』。

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前から3列目のいちばん左端に座って待っていたら横をすり抜けるようにして町田さんが壇上に向かっていったのだが、その際ジャケットの裾が私の肩に擦れてウヒョヒョ、ラッキー☆と内心浮かれてました。気持ち悪くてすみません

 

導入部で、とかく世の中の人は「笑い」という文化を下に見がちであるが、それは違うんじゃないのかな。という持論を展開していた。

その例として某出版社からわりと昔に刊行されている『東海道中膝栗毛』の解説文をまず紹介。この解説者が中村という人物なのだが、自分が解説を担当している本にもかかわらず東海道中膝栗毛のことをわりと罵倒していて可笑しかった。いわく、教訓や上品さや道徳や勧善懲悪などのためになる要素が皆無でふざけきっている、と。

この「笑い」を軽侮する姿勢は1980年代の吉本新喜劇に関する評論文にも通じるものがあるのだそうで、当時の雑誌から吉本新喜劇に関する文化人たちのコメントをピックアップして読み上げていた。高尚っぽいものをありがたがるのは空っぽの神棚を拝むような愚かしさをはらんでおり日常の生活に根ざした「笑い」の文化は人類の叡智である、ということを繰り返しおっしゃっていた。

「自分なんかは昔から『その神棚空っぽじゃないか』と言って神棚をあけてみようとするたびに人から止められ殴られてきましたからね。みんな本当は神棚の中が空っぽだってバラされるのがこわいんですよ」

と語っていたのが意味深長だった。

東海道中膝栗毛』を味わうためのコツとしては、その場その場の「笑い」の背後にある人間の考えを汲み、根底の面白さを見いだすことの重要性に触れていた。

悪い例としては、きくラジ(?)で放送されている弥次さん喜多さんのラジオドラマがめっちゃつまらないんで反面教師としておさえといて下さいと言っていた。ボヨヨンみたいな間抜けな効果音を出したり、おどけた声音を多用するなどの表層的かつ安易な「こういうのやっとけば面白いんでしょ」感は笑いへの冒涜だと力説していた。

東海道中膝栗毛』の醍醐味は、とにかくやってることがムチャクチャ・フリーダムで作者自身がふざけ散らかしているところであり、ふざけ=解放を体現しているとのこと。それに付け加えて、よくある「小説ってなんのタメになるの?役に立つの?教訓はそこにあるの?」というような実利主義的ご議論をチクリと揶揄していて痛快だった。

そのほか、作中に出てくるエピソードには言葉遊びのほか落語の要素もあり漫才や劇のような要素もあり、現在のお笑い文化に通じるあらゆることが網羅されているというのが特色とのこと。

この講義に参加するまでは『東海道中膝栗毛』について、なんか昔の言葉遣いで難しいしとっつきにくいと感じていたのが徐々に面白さを見出せるようになり、3D画像の鑑賞方法を会得した時の感動に近いものを得られた。やっぱり笑いを感じ取れるようになるには一種の訓練・鍛錬が必要であるよなあ。と思った次第です。

 

(余談)講義が終わったあと、共に離れた席にいた友人Nさんと合流。町田さんにあわよくば話しかけたい気持ちもあったが今回はサイン会などはないし、ちょっと遠くに町田さんの姿が見えたけどほかの参加者とおぼしき人たちの応対をしていたのでなんとなく近寄るのも気がひけて あー…まあいっかと30分ぐらいNさんとロビーで談笑し、そろそろ帰りますか〜とエレベーター乗り場に向かったらもうとっくに帰っただろうと思っていた町田さんがふらっとそばを通り抜けたのに気づいて「あっ!」と叫んでしまった。

町田さんは立ち止まって

「ああどうも、雪だけど電車とか大丈夫でした?」と声をかけてくれた(私もNさんも頻繁に町田さんの講義やライブに行くのでなんとなく顔を覚えられている)。マジ紳士。次の何処其処でのライブ観に行きます!楽しみにしてます!などと言いつのる私たちに笑顔で応対してくださり「帰りも、お気をつけて」と言ってくれた。マジ紳士。本当にラッキーでした。

 

あとは、原宿でピアス開けたりほかの友達と会ったりして一泊して帰宅しました。ピース。