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buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。

旧約聖書の『ヨブ記』を読んで・・・応報思想の超克

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信心深く、道徳的にも非の打ち所のない義人・ヨブに、神が与える災難の数々。

なぜ罪の無い人が災いを受けねばならぬのか

という、古今東西問わず多くの人々が抱いてきたであろう疑問に対するひとつの答えが、本書には秘められている。

 我々はラッキーな事があったときに「やっぱ日頃の行いが良いからかなあ」と嘯いたり、いやな目に遭ったときには「神様、悪い事してないのになんで?」「もう神様なんか信じない!」とふて腐れる事がままある。

我々は知らず知らずのうちに “応報思想” に侵食されているのである。

 信心深く良い子にしてるんで、その見返りにわたしを良い目にあわせてくださいネ!ご利益期待してマース!というのが、即ち応報思想である。蓋し打算的&自己中心的な方針である。

わたしが宗教全般を毛嫌いしてきたのは、宗教が全てこの応報思想に裏打ちされた俗っぽいモノに過ぎないと思い込んでいたからである。しかし、真の信仰というものは応報思想を脱却したうえに成立し、且つ苦難の中にあっても己を救済し得るものである、という事が本書には記されていた。かなり、目からうろこであった。

 

本書のあらすじを私のセンスでざっくばらんに申し上げる。

信心深いヨブははじめ、神の見守る中、沢山の農作物や家畜を与えられ、子孫に囲まれ幸せに暮らしている。

「ヨブって奴はまじで信心深いし道徳的だし、いいやつだよ」と神が思っているところに、神の敵対者(サタン?)がやってきて、「ヨブの信心は、あんたがあいつに利益をもたらすが為のものに過ぎないよ。ためしに、あいつに試練を与えてちょっとばかし苦労させてみな。たちまち神のアンタを恨んで、信心を捨てるから」と唆す。神は、では見ているがよい、と云い、ヨブに数々の試練を与える。

自然災害により、子供たちが立て続けに死んだ。家畜や家財道具等の資産は盗賊の手によって奪略され、撲殺され、焼き払われた。とどめとばかりに、ヨブの身体はたちの悪い腫れ物で被い尽くされ、妻をはじめとする周囲の人々から疎んじられ、屋内にいることも許されず外の灰塚の上で悶絶する破目に陥る。ヨブは神への信仰を捨てる事こそしないが、せめてこんな目に遭わされる根拠を神みずから教えて欲しい、そして自分の言い分も聞いてほしい、と強く願う。

ヨブの不幸を聞いた友人3人が見舞いにやってくるが、いずれも

「お前が何か罪を犯したから、神にそんな酷い目に遭わされたんじゃないのお?悔い改めて、もっと信心しろよな。ダメな奴!」と、伝統的な応報思想に立って冷たくヨブを糾弾する。

ヨブは、そんな友人たちに自分の義を主張するだけでなく、彼を不当に苦しめる神に対しても己の義を主張し、自身の潔白を主張しつつ、神に挑戦することになる。

(※1)

 

結局、神の言葉によってヨブの友人達の応報思想は否定され、ヨブは神が創造した世界における被造物としての立場から自身の信仰を見直し、深く心を動かされる。

なんだかんだあって神はヨブの病気を治し、富も元通りに戻してやり、ヨブは残りの人生を幸せに生きましたとさ。とっぴんぱらりのぷう。

(※2)

 

※1…正直、神ヤハウェが出てくるまでのくだりがかなーり長くて、疲れた。友人3人は熱く長広舌を振るい、ヨブも必死に反論するが、まとめると友人の応報思想に基づくヨブへの的外れな説教→そんなことない!僕悪い事してない!というヨブの反論の繰り返しなので、軽く読み飛ばしても個人的にはOKかと思う。

※2...なんだ、やっぱ善人だから結局最後には神様に助けられて幸せに過ごせてるジャン。やっぱ応報思想はアリって感じぃ?というミスリードを誘うのではないか、と素人ながら余計な心配をしている。ヨブのエピローグは無しで、神との対話の場面でストーリーを終わらせても良かったんじゃないか、と一瞬思ってしまった。でも、これは所詮素人の浅い感想だ。後述する通り、自分の思い上がりを悔い改めたヨブが、創造世界の被造物のひとつとして無事受け入れられたことを端的に表すためにも、必要な描写なのかもしれない。

 

 

肝要なのが、やはり神ヤハウェが姿を現しヨブと対話する場面である。

「ヨブ、おまえさっきから聞いてると、自分は絶対正しい、自分が苦難を受けるのは不当だ、と主張してっけど、おまえは神かよ?正しいとか不当とか、お前が決めるわけ?創造世界の中心はお前かよ?お前は一体世界の何を知ってるの?」と、鋭い問いを神ヤハウェはヨブに投げかける。被造物のひとつに過ぎないのに、知らず知らずのうちに自己を創造世界の中心に置き、全てを自分中心に見、神をも批判の対象にしていたヨブは自身の思い上がりを打ち砕かれ、創造世界の中心を追われてうなだれるしかないのである。

(ここでヨブに呼びかける神ヤハウェの一連の発言は、もはや美しい詩である。第38章-第39章にかけて神ヤハウェは自然界の玄妙さ、動物たちの営みの不思議さを述べる。わたしはここの部分がヨブ記では一番好きだ)

 

これは、ヨブに対してだけではない、人間であれば誰もが抱きがちな「私は快適で幸せな状態に有るのがデフォルトな筈なんだ。だから、もし私に苦難が降りかかったとしたら、それは不当で異常なことだ」という自己中心的な思い上がりへの戒めであろう。

更に続く神ヤハウェの発言は、一転して被造物としてのヨブを改めて創造世界に受け入れ、承認するものである。神ヤハウェは自分が創造した動物の「かば」と「わに」を引き合いに出し、かばとわにへの愛情を語るとともに、そのような動物たちと同じ被造物としてのヨブへの愛情を語る。そして、最後の「天が下のすべてのものは、わたしのものだ」という言葉をもって創造世界全体が力強く肯定されるとともに、さきほど創造世界の中心を追われたヨブも、愛すべき被造物として再び創造世界に受け入れられたのである。

 

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人は応報思想では救われない。因果応報があてはまらない事例は世界にあふれている。災いも幸いも、善人悪人問わずランダムに降りかかってくるのである。凶悪な強姦殺人魔が、血の涙を流し苦しみ続ける遺族を尻目に、妻子と温かな家庭を築いてけっこう楽勝モードで人生を謳歌している、なんてな事例もある。応報思想に頼っていたら、こういう不条理と折り合いをつけられず、たちまち気が狂うであろう。神様なんて居なかったね、とニヒルに呟いたって何の解決にもならない。

神の故に神を信ずるのでなければ、本当の信仰ではない。自分の利益を期待して神を信ずるのは、ただの利己主義である。というわけで、自分に利益がもたらされない状況下、つまり苦難が自分にふりかかっている状況下でも「神を義しとする=自分を取り巻く世界を否定せず受け入れる」ことが、この辛い世界を心折れずに行き抜く秘訣だということを、このヨブ記は言いたいのじゃないかという気がした。

 

この本の解説に、マックス・ウェーバー「苦難の神義論」についての言及があった。別のテキストで贖罪思想についての文を読んでいる際も「苦難の神義論」のことが出てきた。苦難の神義論、読んだ方がいいのかなあ・・・難しそうだから気が進まないんだけどなあ・・・