buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。twitter→@khufuou2

鼻ピアスは私にとって自由と能動性の象徴であった

 セプタム(鼻中隔)とノストリル(小鼻)にピアスをつけていると、何故そんなところにピアスをつけようと思ったのか?と問われる事が多い。その度に深く考えず「カッコいいと思って」「なんとなくノリで」みたいに答えてきたのだが、私の鼻ピアスへの憧れは小学生から中学生ぐらいの頃(1990年代から2000年代初めにかけて)に生じたのでは?ということに最近思い至った。

 

6歳上の兄は昔からストリート系のファッションや音楽をはじめとするアメリカの若者文化に興味があって、本棚にはそういったジャンルの音楽CDや雑誌類が揃っていたので私もたびたび手に取って影響を受けていた。兄は特にwarp MAGAZINE JAPANというアメリカ西海岸のユースカルチャー(主にスケボーとかクラブ文化とか野外フェスとかサーフィンとかストリート系ファッションとか)を取り上げた雑誌を愛読していたのだが、その中にセプタムピアスをつけた一般人のスナップ写真が写っていて、私はそのことをずっと覚えていたことにふと気がつき「ああ、これだったのか」と合点がいった。私はけっこう鬱屈した幼少期〜思春期を過ごしてきてて、自己表現がうまくできないとか親に対して自分の考えを言えないとか友達付き合いがわからないとか、そういった感じの悩みを抱えていた。なんというか、自分の人生が自分の手の中には無いという心許なさが常にあった。そんな中で偶然目にしたセプタムピアスの人が、まあ単純に視覚的にカッコよかったというのもあるが「じぶんはこういうファッションをしたいからやる」という自由さと意志を醸し出していてカッケーと思ったのである。当時アホなガキだった自分がそこまで自己分析的に思索していたわけではないが、今振り返るとそうだったんじゃないかなと思う。

時は流れ、35歳とかになった自分はめでたく鼻にピアスを開けた訳だが、それを受け入れさせるべく職場の人たち、友人、親戚などに適宜プレゼンを行った。ちょっと奇抜なファッションかもしれないが質の良い仕事や社会生活を問題なくこなせること、人間関係もこなせること、むしろ自分が好きなファッションをすることで気分がアガり諸々のパフォーマンスが向上すること。それを普段の立ち居振る舞いで理解させた。人によっては私の外見から威圧感をうける可能性があるので、いまも意識的に明るく感じ良く振る舞う努力などをしている。その結果「あの人はああいう人だから受け入れよう」という認識が私の周りで形成され、けっこう快適な生活を送っている。そういうのをぜんぶひっくるめて、私のつけている鼻ピアスは自由と能動性の象徴である。

 

いまも、あの雑誌に載っていた素性のわからないセプタムピアスの人を思い出す。場所は夜のクラブ。赤毛でワンレンのショートカットで目もとを黒く塗りつぶし、性別すら分からない。同じような風態の仲間に寄り添われながら、無表情でこちらを見ている。あの人はいまどこでどんな風に暮らしているだろうか。warp MAGAZINE JAPANは残念ながらいま廃刊だか休刊だかになっているらしい。グレイシー柔術の技のレクチャーが紹介されてたこととか、DJのひとが「バニラシェイクに砕いたオレオを混ぜて飲むと旨い」とコラムに書いていたことなども懐かしく思い出す。

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創刊号の画像らしいです

 

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私の鼻ピアスです