buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。twitter→@khufuou2

文に生きる

こないだ俺は面白いツイキャスを聞いて、それは自分以外に聴衆がいない喋りだったのだけれども面白い話かどうかは聴衆の数には関係がない。この俺が面白いと思うかどうかが肝要なのであり、俺一人しかリスナーがいないラジオ番組、俺一人しか読み手がいない小説だってあって然るべきだ。

読書観についての話だった、その人は物語で最も重要な魅せる要素は文体であって、話の展開とか筋は二の次だと言っていて俺は自分もそう思うと強く感じたのだった。内容はもっともなことを言っていても響く文と響かない文があると別の人も述懐してて、俺はそのこととも繋がっていると思うのだ。

前に町田康が、小説の文は話の内容やあらすじを伝達するという手段である以前に、文そのものが目的でなければならない、文そのものに書き手は奉仕せねばならないと言っていたこととも符合する。

この世の大抵の事柄は、必ずどっかで符合することになっているのだ。それは特別なことであると同時に、ありふれたことでもある。

文とともに生きる。文で生きる。文に生きる。