宗教と哲学について考えた
今回主に参考にさせてもらったブログ:
『哲学』と『宗教』の違いとは何か?:マルクス主義の挫折と『近代』という思想哲学の到達点 カウンセリングルーム:Es Discovery/ウェブリブログ
宗教と哲学の共通点は、いずれも「真理を追い求め、人が生き、考え、行動する為の基盤となる世界観・人生観を提供するもの」だという事。
「自分とは何か」「人は何故苦しむのか」「神は一体何なのか」「もしや、なにかドエライ存在が宇宙を支配していたりするのだろうか」、みたいな事が普段から気になって仕方ない私のような人間にとっては、宗教も哲学も避けては通れない。
では、宗教と哲学の違いは何だろう。正直、わたしは両者の違いをあまり考えないまま、宗教と哲学の勉強に中途半端に手を出してしまったので、自分の頭を整理するためにこの記事を書く。
いまの時代ときたら便利なもんで、インターネットに接続したるパーソナルコンピュータを立ち上げ、検索エンジンに「宗教 哲学 違い」と入力しポチッと釦を押下したところ、同じ疑問を持つ人が世の中にはいっぱいいるんやね、該当の記事が沢山ヒットしたのである。それらにざっと目を通し、適当にまとめて書き出してみよう。そうしよう。ね。
1.大きな相違点:絶対的価値を持つ『神』『教祖』『教え』の有無
信仰の有無、と言い換えてもよいかもしれない。【信仰=揺ぎ無い真実だと見做す事】とも言えるが、宗教においては、不確実なものや、そもそも確かめるのが不可能な情報(例えば、死後の世界の存在や、古代に世界はいったん洪水で滅びたとか、女はむかし男のあばら骨から生じたとかいう妄想じみた与太話ストーリー)を真実として扱う。
宗教は、絶対的価値を持つ神・教祖・教義を信じる事によって真理に近づこうとし、哲学は、様々な事象を材料に、自分の頭で試行錯誤しながら考える事によって真理に近づこうとする。そこが一番大きな違いであろう。
(※1…ただし、後世の人が教典の “解釈の仕方を変える” ことによって本質的にルールを変容させる、という抜け道がある。人間ってやっぱり都合のいい生き物だ)
2. 真理に至るプロセスの違い
宗教と哲学。両者ともに真理に肉薄するのを究極の目標とするが、そこに啓示が介在するか否か、という違いが存在する。
宗教における啓示っちゅうのは、すなわち神的な訳の分からん名状し難いpowerが降りてきて、直接人に悟りをもたらし、世界の真理に思い至らしめる、という事だ。もう、この時点で、若干最初っから哲学寄りの私なんかは「宗教、やっぱり胡散臭ぇ!」と叫びたくなるが、まぁ我慢して続けよう。要するに、宗教においては【わかったことそのもの】が【原理や理由の説明】より先に存在するのだ。世界の在り方を説くにあたり、段階的な考察のプロセスをすっとばして、啓示のような直感で捉えられた人智を超える内容を真実として信仰しなさいよ、というスタンスなわけ。って、だめだ!全然要しきれてねー!
これに対し哲学は、真理に至るプロセスを、順を追って論理的に説明を与えるものである。
3. 宗教と哲学、思考に取り入れるにあたってのメリットとデメリット
宗教のデメリット:不確実、もしくは検証が困難な情報を真実として扱わなきゃいけないので、当然「頭ごなしに言われても、不確実なものを心から信じる事はできねーよ」という反発は出てくる。
宗教のメリット:「証拠不十分なのはおいといて、まぁ教えどおりに考えておけばアレコレ自分で迷うよりも気持ち的に落ち着くから」という良さは、確かにある。でも、それって結局思考停止なんじゃ…と、やっぱり思ってしまう。あれ?メリットじゃなくてデメリットに思えてきた…。
哲学のデメリット:理性的論理的といえども、やはりその主張は哲学者本人の感性に左右されるので、論理の抜けや齟齬はどうしても生じてしまう。そのへんの偏りは、みんなで議論して知恵を出し合って解決するしかない。
哲学のメリット:啓示頼りでなく、普遍的かつ妥当な思考をひとつひとつ積み上げて結論を導くので、多くの人にとって論理的に理解しやすい(その主張に賛成するかどうかは別として)。
哲学とは論理的・説得的な言語ゲームによって、言語・文化・宗教にできるだけ依拠しない『普遍妥当的な言説(解釈)』を思考して構築する営みであり、順序正しく読み進めていけば誰もが了解できるような論理の筋道を立てることである。宗教は慣習的・教条的に信じる人たち同士で共有できる『真理性・物語』を呈示していくが、哲学は論理的・了解的に誰もが納得せざるを得ないような『普遍性・共通概念』を呈示することが目的である。宗教の本質は『無私的な信仰・受容』にあり、哲学の本質は『論理的な懐疑・批判』にあるが、哲学の場合には『信じる・信じない』とは関係なく、言説の内容を順番に読んでいけば、誰もが論理的な思考の流れとしてその内容に同意するか否かはともかく知的に了解することができる。
哲学の起源は、古代ギリシアのターレスやアナクシメネスなど自然哲学にあるとされるが、紀元前6世紀の自然哲学がより起源に近いからといって、近代以降の哲学で宗教の創始者のような『権威的な地位』を占めることは全くない(哲学の参考URL)。イスラームの『コーラン(アル・クルアーン)』やキリスト教の『旧約聖書・新約聖書』に宿っているとされる神聖な権威性・教条性というものが、特定の哲学者や哲学書に対して宿ることは通常ないのである。
ー『哲学』と『宗教』の違いとは何か?:マルクス主義の挫折と『近代』という思想哲学の到達点 カウンセリングルーム:Es Discovery/ウェブリブログ より抜粋
4. 宗教と哲学は切り離せない関係である
哲学は、その性質上広く人類の思想を扱う(人生論、存在論、認識論など)。宗教も人間の思想の一種であるから、当然哲学とは密接なかかわりを持つ。
宗教哲学といって、哲学的に宗教というものを分析する学問分野も存在する。
いま私が個人的に読んでいる哲学の本にも、キリスト教の聖書がらみの題材が頻繁に出てくる。宗教にはいい面も悪い面も不可解な面もあるだろうが、やはり昔から多くの人に取り上げられているということは、信者以外の人々にとっても思想的な意義があるのだろう。そして、思想あるところには哲学が宿る。古代から、宗教と哲学は複雑に絡み合いながら今日まで人類に受け継がれてきたのであろう。
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それにしても、現代においては「哲学=カッコつけ、若しくは小難しい理屈を捏ね回す技」「宗教=とにかく胡散臭い詐欺師」みたいな芳しくないイメージがポピュラーになっている気がして、残念である。
私自身は、特定の哲学思想に傾倒したり単一の宗教にのめりこむのではなくして、哲学全体・世界のあらゆる宗教を俯瞰して学問するという取り組みが世の中の主流になればいいのになあ、なんて思っている。