buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。twitter→@khufuou2

薄夜夢

夢の中だけの友達。夢の中だけにある行きつけの喫茶店。夢の中にしかない感情。夢の中の私は容姿端麗な妙齢の娘で、こわいものは何もなかった。私は群衆の中で誰かに激昂し、怒鳴っていた。怒りながらも、とても開放的な良いきぶんだった。とにかくこれだけは大声で言っておかないと死んでしまう。とても切実だった。

目がさめる。現実世界の私は太った中年女で、臆病で、感情をむき出しにして声を荒げたことなど一度もない。友達もいない。私があまりにもパッとしないから、みんな離れていってしまった。めちゃくちゃ田舎なので、行きつけにしたいような気の利いた喫茶店など一つもない。しらこいチェーン店だけである。絶望しながらも、もう10時間以上眠りほうけてしまったからしばらく眠れない。頭がいたい。仕方なく起きて現実世界の事をする。だるい。起きていたくない。全てが無駄だ。お腹にくだらない食い物を詰め込んで、頭痛薬を飲んで布団にもぐりこんだ。満腹感と副作用の眠気で、また暫く寝ることができるだろう。願わくば、さっきの夢の続きを。さいあく同じ夢じゃなくてもいいから、できるだけ突拍子もないでたらめな夢を。

おやすみ。

思い出せない小説

実験の待ち時間に上司と話をしていて、先日町田康のライブに行ったという話から、どんな音楽を好んで聴いてきたかという話題になったのでラモーンズ、ハロウィン、ブラインドガーディアン…と好きなバンドの名前を列挙したら全部通じたのでちょっと感動してしまった。今まで「ごめん、知らないや」と言われることしかなかったので。

10代の頃はソニックユースが大好きだったと付け加えたところ上司は大喜びで、「いやあ。斜に構えてるねえ。捻くれてるねえ。修学旅行の夜にひとりでドストエフスキー読んでたんでしょ?それで周りがGLAYとか安室奈美恵とか聴いてるなか、ソニックユースのファンかあ。いやあ、それじゃダメだねえ。浮くだろうねえ」と、前話した高校の修学旅行で友達の輪に入れず孤独にドストエフスキーの本を読んでいたエピソードまで持ち出して(よっぽど気に入ったらしい)頻りに感心していた。上司はピストルズとかクラッシュとかボンジョビとか聴いてたらしい。「僕が坊主頭なのは実はPANTERAのボーカルの真似なんだよ」と上司が打ち明けてきて、最近はメタル界の高齢化と衰退が著しいみたいなことを話した。

 

 

それはまあ良いとして、昔読んだ本でタイトルと著者が思い出せなくて気になっているものがある。

収録されていた物語の内容は、ひとつは元モデルで驕り高ぶった子持ちの美人をとりまくママ友同士の確執を描いたもの。驕慢な美人ママが実は昔水商売をしていたという過去を暴かれて鼻を折られた…と思いきや美人ママはへこたれておらず、高級なシャブリワインを手土産にライバルママの夫に取り入ってやる!という場面で話は終わる。

もうひとつの話が、年配の主婦が応募した暮らしの知恵的な小説(米の研ぎ汁がどうのこうの言ってた)がややウケして編集者までついて、作家デビューよ!もう冴えない夫とは離婚よ!次回作もがんがんいくわよ!と大いに舞い上がるのだが一発屋で終わって飽きられてしまい、返本の山を見ながら編集者たちが「まいったね、あのおばさん張り切っちゃってるけど、そろそろハッキリ言わないとね」という場面で終わる。

 

いずれも後味が悪い話で、なんとなく印象に残っている。後世にまで語り継がれるわけではない、一過性の娯楽小説という感じはするけどそういう作品はそういう作品で味があるな、と最近は思う。もしこの本の内容に心当たりのある方がいたら、タイトルと著者名を教えてください。自分でもネットで検索してみたのですが、うまくいきませんでした。お願いします。

ソローキン『ロマン』を読んだ感想

 ウラジーミル・ソローキンの長編小説『ロマン』の感想を記す。以下ネタバレあり。

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 とにかく小説についての既成概念を覆すようなどえらい作品である。そもそも、ソローキンの作品を手に取ろうと思う人はソローキンの作風がラディカルかつ逸脱的であることをある程度理解した上で読む人が大半だと思うが、この作品はヤバいらしいぞという覚悟をもって臨んだ者をなお心胆寒からしめるほどの魔力と破壊力に満ちている。
 本作は上巻約420ページ、下巻約360ページから構成される。弁護士として首都で暮らしていた好青年ロマンが、都会暮らしに厭気がさし、画家として新たな人生に踏み出すべく故郷のクルトイ・ヤール村に戻るところから物語は始まる(正確にいうとロマンの墓碑が鬱蒼とした森の中で驟雨に打たれるシーンがプロローグとして描かれるが、その絵画的で緻密な情景描写に圧倒させられると同時に、この物語の帰結が不穏で危ういものであることが推察される)。故郷の田舎村で親類や旧知の友に囲まれた愉快な日々。都会では忘れていた豊かな人情と自然に包まれ、ロマンは大きな喜びを感じる。かつて愛した恋人の内面的な変貌と別離に落胆したロマンだったが、やがて運命の女性タチヤーナと巡り会い紆余曲折の末結ばれる。村人総出で二人の結婚を祝う宴の夜、祝いの品である斧を手にしたロマンは新妻を従えて村人たちの殺戮を開始する。歓びと笑いに満ちていた小村は一転、阿鼻叫喚の地獄絵図と化する……というのが大まかなストーリーである。上巻全部と下巻の途中まで、19世紀ロシア文学を精密に戯画化・模写した流麗な文体と物語世界が構成されるが、下巻の終盤は酸鼻極まりない残虐な描写、極限まで分解された素っ気ないテクストの反復・羅列となり唐突に話が終わる。翻訳者であり解説者である望月哲男氏の言葉を借りると、“いわば人格の破壊、人体や聖物の破壊、文章の解体という作業がパラレルに進行するわけだが、このパラレル関係はきわめて徹底している”ということになる。
 なぜ終盤でロマンが凶行に至ったのか?という観点で心情的に推測を巡らすことはあまり意味が無いように思う。物語の大半を費やして緻密に積み上げられた世界が、終盤で極限まで分解されていく過程を味わい、“文学の虚構性を明示するこの構築・解体作業が、まさしく文学にしかできぬ形で行われている”“文学の破壊とは、文学の可能性の誇示でもある”(巻末の解説文より引用)と感じることに意義があるのではないだろうか。


 読んでいる途中で特に印象に残ったシーンを記録しておく。

・上巻p.62 ルカヴィーティノフの「きみは生への意志こそが人間の主たる意志衝動だと確信しているのかね?」「浮浪者や飲んだくれは意志が弱いのでは無く、生への意志とは逆方向の意志が強いということに過ぎない」というせりふ。

・上巻p.112 「森は自足した個として存在し、己の独自な生を営んでいる。人はその生に介入することができるだけで、森とひとつになることはできない。森は人間を一顧だにしない。森のなんという自由なことか」というロマンの述懐。

・上巻p.132 人間は心変わりするものだ、人が愛と呼ぶものはただの習慣や肉親の情に過ぎないのではないかという懐疑。

って、なんか疲れてきたからちょっとぞんざいな感じで続けるが、ロマンとかつて恋仲にあったゾーヤ嬢が田舎の風景や人間関係の単調さに倦んで外の世界への飛翔を渇望するさま、ロマンがあんなに魅了されていた田舎の豊かな自然風景や狭く密な人間模様が先進的なゾーヤ嬢にとっては退屈極まりないものであること、のちにタチヤーナ嬢に恋したロマンが一転して自然や絵画に全く興味を持てなくなってしまい、あれだけ愛着を持っていた親類たちの人情をわずらわしく感じるようになる様子の変遷がリアルだった。
 あと特筆すべきは、厭世的で皮肉屋な医師クリューギンの存在だろう。愛や生を否定し、キリストは精神分裂症だという一風変わった持論を展開する彼は、純朴な田舎の人々のなかにあって異彩を放っている。ロマンをして「あの人は変わっているけど、僕は大好きさ。この村でいちばん好きな人物かもしれない」と言わしめ、終盤で村人たちが手も無くロマンの斧に斃れるなか、唯一反撃を試みたクリューギン(まあ、結局は殺されて他の村人同様切り刻まれるんだけれど)。この物語にあって何か重要な意味を担っているんじゃないかと思ってしまうが、特定の登場人物の思想や持論が作者の主張を投影しているのでは?という読者の勘ぐりさえもソローキンは見透かして拒絶しているような気がする。
 そのほか、信仰、自由、意志、世界についての言及や議論など、つい引用して吟味したくなるような文章がたくさんある。食べ物、服装、風俗、娯楽、地口や冗談などはドストエフスキートルストイなどの古典的ロシア文学に触れたことのある私にとっては「こういうの、あるある!」的な感じで楽しめた。物語の展開も、タチヤーナの父がかつて娘を火事の中から救ったこととロマンが火事で焼け出された民家から大事なイコンを回収する場面を対比させたりしていてなかなか技巧的である。こんな風に読ませる要素がふんだんにありつつも、「でも、最後はぜんぶぶち壊しになるんだよね・・・」という緊張感をもちつつ読み進めることになる。なぜなら裏表紙にネタバレが書いてあるからである。

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下巻225ページ以降は圧倒的な暴力と解体作業に打ちのめされることになる。読みながらもうやめて!勘弁して!という気持ちになる。読んでいて気分が悪くなり横になることを余儀なくされた本は本作『ロマン』が初めてである(これ、誉めています。グロさにやられたというより、文章が複雑さを失い淡々と解体されていく過程を目の当たりにして感情をひどく揺さぶられたという感じ)。

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↑このくだりをロマン体操と称している人がいて面白かった。

 

アントン叔父が婚礼の晩でめでたいから皆施錠をせずに寝ようね!と言ったのに何件かしっかり鍵をかけてたお宅があったのとか、タチヤーナがずっと鈴を振っている描写はちょっと笑った。


 ということで個人的にはめちゃくちゃ気に入った『ロマン』ですが、特殊すぎて万人にはおすすめできません……。とにかくそのへんの小説に飽きちゃった、どえらい読書体験をしてみたいという人は手を出してもいいかもしれません。事前にアマゾンやブックメーター等で色んな読者の感想をチェックしてから読むことをおすすめします。あと、定価は上下巻ともに2,500円前後なのですが、あまり刷られていないのか2019年6月時点でアマゾンの古本で5,000円以上するものしか見つけられませんでした。私はそれだけのお金を出してでも買って良かったと思っていますが、ちょっと内容的にも値段的にも気軽に試しにくい現状ではあります。図書館にあれば借りて読むのも良いですね。今後増刷する予定あるのかな。

町田康さんの『太宰治を読む』20190710 青山

 2019年7月10日、NHKカルチャーセンター青山教室にて町田康さんの太宰治についての講義を聴いたので感想をまとめます 。
 私は町田康の小説も太宰治の小説も大好きなので、こんなに贅沢な講義は是非に聴講せねばというわけで喜び勇んで出掛けました。 もともとこの講義は2回に分かれていて、残念なことに2回目の分しか受講できなかったのですが1回目は太宰治の経歴の紹介がメインだったとのことで、今回の講義で太宰治の作品群に具体的に触れたお話を聴けたのでよかったです。

 町田さんが開口一番「なんか最近、政治的なことで世間がうわーってなってますけれどもね。普段えらそうにいっぱしの政治論をぶっておきながら、政局の変化におもねって意見をくるくる翻すような輩は今も昔もいる訳ですが、太宰治井伏鱒二といった人たちは、 そういった姑息な姿勢をひどく嫌ったといいます。我々も太宰治に倣い、政治的な喧噪から離れたところで高踏的かつ超然とした姿勢で文学のことを勉強して参りましょう」と澄まして言い、ちょっと笑いが起きました。

 まず、太宰治の作品の特徴を論じる上でポイントとなってくるのが
・キリストに自らを擬する。罪の意識と自己犠牲の精神、それに伴う葛藤。
・“自己の切り下げ”すなわち自分を悪く言い卑下すること。人に攻撃される前に自分を下げてみせること。
とのこと。
 町田さんが提唱する太宰4サイクルというのがあって
苦しみ→自己の切り下げ・道化→キリスト化→逆ギレ
という流れを意識すると太宰の作品は読みやすくなる。
ああ確かに。と思いました。
 ここから、具体的な作品に触れつつの話に入っていきます。たとえば、『乞食学生』。この作品では、内面の葛藤・自己の切り下げ・道化の要素が顕著に見て取れます。果てしない自己言及、果てしない自己の掘り下げも特筆すべきポイントです。『ろまん燈籠 』という、兄弟姉妹たちがリレー小説をつくるという体裁の作品がありますが、ここで町田さんはそれぞれの登場人物たちが原稿用紙 にお話を書き出す前のしぐさについての描写が詳細にわたるうえに ユーモラスである点を指摘していました。これらの描写は、執筆している太宰自身への言及とも捉えられる。また、ユーモラスさや俗っぽさを醸し出すことにより、自己の切り下げも行っている。このへんは私は意識せずただ楽しく読んでいたので、町田さんの説明を聴いて新鮮な感じがしました。

 というふうに、文章の力で自己を切り下げて精神的にひと息つくものの、すぐに自意識や葛藤が頭をもたげてきて苦しくなってきてしまう。この苦しくなってくる太宰の自意識を論じるために町田さんが取り上げたのが『姥捨』。不貞をはたらいた妻とその夫が心中を企てて旅にでるものの結局生き残るという筋書きのお話で、太宰の意識を投影していると思われる夫の内面描写や葛藤が見所です。 不貞をおかしてしまった妻を赦したいけれども、理想に反して感情のところでどうしても赦すことができない。自分が悪かったのだと思おうとするけれども、やっぱり腹立ちが抑えきれない。夫の「みんなおれにはねかえってくる」という述懐がキいています。こんなふうに、キリストになりきれない作中人物ひいては作者である太宰自身の“逆ギレ”が顕著にあらわれた作品であると言える。 そういえば、この『姥捨』で心中失敗直後の夫が水たまりに浸かりつつ身じろぎするくだりが簡単かつ省略的で、 現実っぽさに即してないんじゃないか?と思われるかも知れないが 、小説にこういったことは付きもので、世の中にはそういった描写をあげつらって偉そうにダメ出しをする評論家がいますがハッキリいってそんなのは阿呆ですから!と町田さんが熱弁して、 ハッと我に返って「まあそれは余談ですが」 と苦笑いする場面があったんですが、なんか普段のご自身の創作活動で思うところがあるのかな?なんて思って、 ちょっと個人的に面白かったですね。その他太宰の逆ギレが見て取れる作品としては『狂言の神』が挙げられていました。
 更には、時代が戦後に進むと作風にアンチクライマックスというか “抜け”の要素が入ってくるとのこと(たとえば『トカトントン』)。

ここいらで講義も終盤にさしかかってきますが、最後の方はちょっと駆け足でしたね。
これからも太宰の作品を読み継いでいく意義について語っていましたが、
まず文体がリズミカルで魅力があること。特定の思想をバックグラウンドにしておらず、ひとりびとりの苦しさに誠実に向き合ってい ること。逃れられないエゴイズムと対峙しているところが、現代でも色褪せぬ迫力として我々を惹きつけてやまないのではないか。 とのこと。 そして最後に町田さんは『風の便り』を朗読していたのですが、これが良かった。ふたりの作家の往復書簡集という体裁の作品なのですが、とにかく常に書き続けなければならない、生きているのと同じ速度で。名作を書かなきゃといった功名心に振り回されず、下手だろうが才能が無かろうが駄作だろうがとにかく呼吸するように書き続けることが大事なんだ。といったくだりがあるのですが、これが町田さんが朗読しつつ作家としての自分自身に言い聞かせているように思えて、町田さんの作家としての矜持につながっていることも窺えて、聴いていてなんだかすごく感動しました。

講義終了後、高速バスで松本にとんぼ返りしました。その他空き時間はいろんな人とお会いしたり話したりもできたし、憧れの鹿さんマークのタピオカドリンクを飲めたし、高円寺で古着を買ったり散策したりもできたし、すごく充実した一日でした。

町田康の音楽ライブ 19.6.6 @得三 (名古屋市)

名古屋市 今池にあるライブハウス『得三』で町田康さん率いるバンド『汝、我が民に非ズ』の2nd アルバム発売記念ライブがあったので、観て聴きに行きました。

松本駅から高速バスに乗ること約3時間、名古屋市の中心部・栄で降車。私は過去に6年ほど名古屋に住んでいたことがあり、懐かしいし折角の機会だからとあえて早めに到着してウロウロしていたのですが、そのことはまた別に記事を書こうと思います。

勝手知ったる東山線今池駅に到着。宿は何ヶ月も前から予約してあったホテルルートイン今池に抜かりなくチェックイン。少し休んでから会場の『得三』に向かう。まだ開場まで40分あるから人影はほぼ無し。お店の人が入り口にスタンバイしていたので予約済みのチケットを引き換えてもらいました。

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お店の人が受付しつつ吸ってたタバコがハイライトだったのがなんとなく印象に残りました。このラフさ、いい感じです。

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入り口の案内書き。

都内でひらかれるライブだと予約時点で早々にチケットが売り切れてることが多い印象ですが、開催が名古屋かつ平日ど真ん中の夜だからなのか、まだ当日券の余裕があるみたいでした。

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整理番号9番と、今までお目にかかったことがない最初の方の数字なので期待が高まります。都内のライブって開場待ちの時に所在ない感じになることが多いのですが、今回は人通りが少ない上にお店の向かい側の壁に縁がでっぱってて座って待つのにちょうどいいあんばいでした。ちらほらと人が集まってくるのをしり目に壁際に腰掛け悠々とKindleを読んでいると、同じくひとりでライブを見にきたらしい女性が横に座り気さくに話しかけてきてくださいました。(以後この方をTさんとします)。Tさんは今回の名古屋に加えて翌日の大阪でのライブも観に行くらしく…なんという情熱&タフネス!

開場して中に通されたら、そこはごく小ぢんまりとした会場。なんと最前列のど真ん中に陣取ることができ、嬉しいやら緊張するやら。ステージが近い!!

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ぜんぶ立ち席かと思いきや、ステージから見て左側の壁際に沿ってテーブルと椅子が並んでいて残りが立ち席というなんだか謎な配置でした。開場から開演まで1時間あったので、物販コーナーで先行発売されていた2ndアルバムを買ったり、隣り合ったTさんと色々話したりしてました。十代の頃地方住まいだった彼女は好きだったとある小説家の講演会に行くことを夢見て進学先の土地を決め、まさに受験会場に向かう途中その小説家の訃報をきくという経験をしたのだそうで、それ以来「好きな作家やアーティストが生きていて会える機会があるうちに積極的に会いに行こう」と思って行動しているのだそうです。なんだかこのお話にはとても感じ入ってしまいました。

 

そうこうしているうちに開演、バンド登場。町田さんは全身黒でキメていて、ドクロのタンクトップ、左右の身頃にギターが描かれたシャツ、サルエルパンツにブーツ、首元にチラリと光るネックレスといういでたちでした。

町田さんはライブの時は紙の歌詞を見て歌うし紙のメモを見て曲の合間のトークをするスタイルなのですが、まず情熱的に2曲ほど歌ってから

「あのー、うっかりトーク用のメモをホテルに忘れてきてしまいました…」とボソッと言ったのが可笑しくてみんな大笑いでした。いつもよりフワフワした感じのトークも面白かったですし、演奏と歌の調和もいつも通り素晴らしかったです。ノリノリでアッパーな感じの曲もあり、変調子でジャズっぽいまったりした感じの曲もあり。幾重にも重なった楽器たちの音色と町田さんのボーカルの奥行きと歌詞の言葉の響きが織りなす妙なる世界はどこまでも広がっていき、お客はみんな夢中で聴き入り、リズムに合わせて躍動していたのでした。町田さんの小説の中で、音楽に合わせて無心に足踏みする様子を「阿呆が麦踏みをしているよう」と表現していたことがあって私はそれを思い出して「今の私も阿呆が麦踏みをしている感じに見えるのかな」なんて愉快に思いながら曲を聴いてました。

 

2ndアルバムの曲目です。

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どの曲も素晴らしいのですが、私はテンポの速い曲がより好きです。

『神様が掘った穴』、『踊り狂う君ダウン花を抱いて儲けなしでターン』、『牛飼童』なんかがノリノリで良いです。

あー、でも『夏服の女』の明るい旋律にのせて「花は滅んでやばいくらい空が青い(中略)破れ傘を吁差してる夏服の女」と展開する叙情的な歌詞世界も捨てがたいし、

『土の記』の静かな導入部から後半にかけてだんだん「わだだっわだだっわだわだわだ」と大きくうねって盛り上がる感じも壮大でしびれるし、

うーんうーん…

全曲おすすめです。ははは。

 

ただ、私が特に好きな『あの日の豚にチャーハンやれよ』っていう曲が収録されてなかったのが残念ですね。あとは『縁(えにし)の芽生え』とか。とにかくこのバンド、曲が多いんですよねー。いつか全曲CD化されるのだろうか。期待してます。

いちばん最後にINU時代の『つるつるの壺』をやってくれたのがサイコーに盛り上がりました。

 

あとなんだろうなー。

トークで面白かったのは旅行中の荷物を持て余す話とか(猿股とか古風な言葉を突如使うのが可笑しい)、昔のインタビューなんざ覚えてないのにインタビュアーは昔自分がやったインタビューの内容をこっちが記憶してる前提で話してくるから困るっていうボヤきとか、宮本むなしの話とか、町田町蔵時代?に名古屋でライブやった話とか、曲のタイトルのあれこれとか、俺は堂々とカンペを見るぞなぜなら誠実だから!みたいな話とか笑。町田さんは基本的にライブの曲目に絡めたトークをするんですけど、今回カンペを忘れてきてるので若干グダグダな喋りになっててそれもまた良かったですね。昔話になって、かなり古くからのファンとおぼしき人が観客席から「町蔵、なんとかかんとか」と昔の町田さんの芸名で呼びかけてた時に苦笑いして

「お互いのためにそういうノリはやめときますか」みたいに返してたのも面白かった。

 

さいごは、長丁場のライブで疲れているでしょうにファンのためにサイン会を開いて下さいました。私は少しでも町田さんと一緒の空間にとどまりたくてわざと後ろの方にゆっくり並んだりして…。

町田さんには過去に何度か読書会・講演会・サイン会で声をかけさせていただいててなんとなーく顔を覚えられているふしがあるので(※過去の町田さん関連のブログ記事参照)私の番が来たら目を見て「あ、こんばんは」と挨拶していただき天にも昇る心地でした。

今回は高速バスで来ましたと言ったら「長野県からだと名古屋に行くのと東京に行くのとどっちが遠いの?同じぐらい?」などと返していただきもう感無量です。こういう他愛もないやり取りをさせていただけることがもうありがたい…。しっかり握手&サイン頂きました。

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外に出たらTさんが待っててくださって、少しお話ししてから別れて宿に引き上げました。

色々と楽しすぎる名古屋の夜でした。

 

パンクロックの楽譜を買いに

10代の頃から周期的に好きな音楽が変わるのだが、今はラモーンズ のことばっかり考えている。

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ラモーンズを初めて聴いたのは15歳ぐらいの時で、ベスト盤"MANIA"の一曲目である"I Wanna be Sedated"を聴いて、メロディーの軽妙さ、そして何よりJoeyのボーカルに衝撃を受けたのを覚えている。甘くて少しとぼけた感じで空を突き抜けるかのような心地よさもあって、これはボーカルをやるしかないっしょ!みたいな声質だ。他にも良い曲がたくさんあったし、メンバーのジャケット写真も雰囲気があってカッコいいのですぐ気に入った。当時は(1990年代半ば〜後半ぐらい?バンドはとっくに解散していた)ネットが発達してなかったし私自身調べものの仕方に疎かったりしたので、メンバーの写真や名前を眺めて「どんな人達なんだろう」と想像を巡らせるのが関の山、あとは歌詞を英和辞典で調べたり口ずさんだりしていた。

 

で、今。自分のなかでまたラモーンズ熱が再燃したので、音楽CDを聴き直したり伝記やドキュメンタリー、ネット記事の類いを視聴しまくっている。好きなバンドの情報がこんなにたやすく集められるなんて、べんりな時代である。

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これは日本のファンクラブ会長が執筆したドキュメンタリー本。著者はギタリストのJohnnyと親交があったとの事で、臨場感あるエピソードやメンバーの人間的温もりや活動当時の雰囲気を感じることができた。

10代のとき私が見た目で想像してた各オリジナル・メンバーのイメージは

ボーカルのJoey→優しくてマイペースそう

ギターのJohnny→コワモテ

ベースのDee Dee→ヤンチャそう

ドラムのTommy→バランス型

みたいな感じだったが、調べた限りそんなに的外れな印象ではなかったようだ。

 

ラモーンズは音楽性もさることながら、活動のスタイルや個々の生き方もかっこよくて惹きつけられる。バンドの成り立ちはドキュメンタリー映画『エンド・オブ・ザ・センチュリー』にくわしいが、

インタビューでJohnnyが

「下手くそだったから他のバンドのコピーは出来なくて、オリジナルの曲をやるしかなかった」

「上手くなくても才能がなくてもとにかくやるんだ、続けるんだ」

「稼いで生きていくのに、俺たちにはこれしかなかったから」

と衒いなく真面目に淡々と喋っていたのがとてもかっこよかった。

生きるのに向いてない、とか嘯いてうじうじくねくねしてる自分を張り倒してやりたくなった。向いてなくても才能がなくてもやるんだよ。ロケンロール。うくく。ギタリストのJohnnyはバンドリーダーでもあり、厳しくて支配的な性格から人当たりがいいとは言えずワルモノ扱いされることもしばしばあったみたいだが、不器用で実直でバンドのことを真剣に考えていたんだろうというのが伝わってきた。

ボーカルのJoeyのことも書きたいけど、私は個人的にJoeyがいちばん好きで今書くとめちゃめちゃ記事が長くなってしまうので機会を改める。

パンクについては人によっていろいろ定義があると思うけど、私はべつに暴れたり派手な格好をしたり非行に走ったりすることがパンクの本質じゃなくて、自分の意を曲げて時代やら権威やらに迎合することをせず信念を貫くことがパンクなのかなと、ラモーンズを見てて思う。(ピストルズが英国でめちゃくちゃをやってパンク音楽は危険だという世論が形成されつつあったとき、ラモーンズはその悪いイメージに抗うため相当苦労したそうだ。)

ラモーンズの誰かが言ったという「演奏が上手くなるまで待ってたらヨボヨボになってステージに立てなくなっちまうよ」という言葉も大変に気に入っている。おれも今日から寝床でパンク。静かに大暴れ。

炎はときに冷たく燃える

QueenのKeep yourself aliveという楽曲があるのだが、思考の接続がちょっと狂った感じになっていてこの曲のことを思うときに一瞬 Kill yourself alive という風に頭の中で呟いてしまう。文法的に正しい英語なのか分からないが、「生きた状態で死ぬ」みたいな意味になるのだろうか。昔の洋楽にはしばしば謎の邦題がついていて、Keep yourself aliveの邦題は『炎のロックン・ロール』というらしい。あんまりだと思う。

仕事をやめる直前の1ヶ月間、かなりナーバスになってしまい神経がむきだしになったような感じがして、通勤で車を運転するのが本当に怖くて苦痛だったので行きも帰りもQueenの音楽だけをカーステレオで繰り返し流して自分を奮い立たせていた。事故らなかったのはQueenのおかげだと思う。冗談抜きで。

わたしって花が好きですか?

花瓶の中で腐った花萎れている

 

なんとなくこういうことをすれば感性豊かな暮らしなんだろうと思って花を買ったり飾ったりしてみた時期もあったけれども、最近、ああ私は花が別段好きじゃないなあ、としみじみ思って止してしまった。どだい興味がないのだ。

花屋さんで見繕ってもらった花束をその場で食べたらウケるだろうか?

ブーケトスで受け取った花束を食べたら喝采されるだろうか?

そうなんだよ。綺麗な景色も美術品も花もほんとうは別にどうだっていいんだよ失敬な。そううそぶいて、ぽーん。無人駅で電車に飛び乗った。

どうせだるいだけなんだろうな。楽しめないんだろうな。すぐ布団が恋しくなるんだろうな。そう思いつつ安曇野の庭園に着いた。

空が青くても緑が深くても、最近は何も思わなくなってしまった。ひとり3時間、呆然とベンチに腰掛けてた。何を思っても思わなくとも、陽は淡々と降りそそぐ。

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不思議なことに、少しだけ楽になった。

椅子の写真を撮りまくった。

わたくしにはいま、椅子が必要だ。長い人生には椅子が必要だ。都会にはもっと無料の椅子が必要だ。

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わたしはほんとうは花が好きなんだろうか嫌いなんだろうか。わたししか知らない花のことなら好きになれるのかもしれない。

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好きだったあずまやの写真。

人がいない風景だったら好きになれるのかもしれない。

Open your eyes

べつに楽しくなければ生きている意味がないなんてことも無いだろう。

Open your eyes.

3月いっぱいで仕事をやめた。17時まで働けないやつはこれ以上置いとけないという話だったので仕方がなかった。朝いやいや起きて9時から働き始める。15時に帰る。往復の車通勤はすごいストレスだ。こんな短い時間の仕事でも疲れ果てて、帰宅するやいなや20時近くまで寝て、寝ぼけた頭に鞭をいれて犬の散歩に行って帰ったらメシ。入浴はサボることも多かった。で、「明日が来るのが嫌だな」と思いながらダラダラスマホをいじって深夜に寝落ち。コンビニで買った簡易食品の無茶食い・盗み食いが唯一の気晴らしで、そんな日々を過ごしていたらブクブク肥えた。本は読めなくなった。いくらかの日銭は稼いでいたかもしれないが、こんな白痴みたいな暮らし全然惜しくないだろ?

Open your eyes.

仕事をやめてから食う寝る以外のことは本当に何もしたくなくて、遊びにも行かずにいた。精神病院の主治医には心を閉ざしているので、月一の診察時は「おかげさまで調子は上々です(はりついた笑み)」しか喋らないことにしている。

休むのが嫌になるまでとことん寝逃げしたほうがいいのか、少し無理してでも外に出て活動したほうが元気が出てくるのか判断がつかないから、きょう安曇野の美術館に行ってみた。

田園風景のただ中をレンタサイクルで走った。自転車走行は危なくて、さわやかな風が体を通り過ぎる感じも本当いやだった。

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風景が綺麗なこともどうでもよかった。美術館の展示が世界中の絵本に登場する猫をとりあげたもので、もう何も感動できなくなっていたけど、とりあえず見た。観たじゃなくて見た。いわさきちひろの夢みるような優しいタッチの水彩画ももうどうでもいい感じだった。しゃれた庭園のテーブル席に腰掛けて、寝室の布団のことばかり考えてた。

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デッキチェアに横たわることもままならなかった。

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小鳥のさえずりを聞きたくなくて、iPodのイヤホンを耳に突っ込んでハードロックをがんがん流した。ゆらゆら帝国を聴いて、RAMONESを聴いて、それからTen Foot Pole を聴いたら少し落ち着いた。食いもんのことと布団のこと。食いもんのことと布団のこと。そればっかりだ。

Open your eyes.

今までは美術館に来たらミュージアムショップで絵葉書を買うのがならいだったが、猫の絵が描かれた絵葉書を手にとって猫好きな知人に便りを出すことを想像しても「どうでもいいぜ」としか思えず本当にいやな気分だったので止してしまった。私はいったい今後人に手紙を書けるのだろうか。手紙書きますね、と言ってそのままになっている人達の顔を、まあ顔を知らない人もいるけど、思い起こして悲しかった。

Open your eyes.

あしたは、はっ、しゃらくせえ。洋風のハーブガーデンをみにいきます。

楽しくなくてもやって行くんだ。生きるのが苦手でもやっていくんだ。

私は花が好きでもなんでもない。

Open your eyes.

町田康さんとの読書会で『前世は兎』を読む②

続きです。

意見交換のとき私も発言したろうかしらんと思いましたが、結構発言者が多くて自分では思いつかない面白い意見が相次いだので自分の感想はあとで町田さんに直接言えばいいか、と思って話をメモって聴くのに集中することにしました。

やはりいちばん言及されていたのは、前世が兎である女主人公の矛盾をはらんだ振る舞いです。愛を人ならではの弱さだと非難しておきながら別の箇所では何かを愛するという発言をしたり、本能的かつ平板な世界を是としているのに本能的とはいえない捩れた言動をしたり、言葉と意味を非難しながらも結局言葉と意味から逃れられていなかったり。この矛盾が何を意味するのかというところで、この物語は全て女主人公の妄想であるが故に破綻しており狂気を表現しているのだという意見、人として生きることそのものが矛盾とともに生きることなのだというメッセージを読み取った意見があがりました。あとはナショナリズムについての描写も取り上げられてて、政治的な視点で読み取る可能性も示唆されていました。ここは完全に私の中からは抜け落ちてた視点だったので興味深かったです。

「この話は人間視点でみるか兎視点でみるかで大分受け取り方が違ってきそうですね。どっちの視点で読んだ方がイメージが膨らむと思いますか。また、前世が犬でも豚でも猫でもなく兎が選ばれた理由も考えてみると面白いかもしれない」という町田さんのコメントがありました。兎は多産→好色→淫乱という連想から、強姦されたことをきっかけに気がふれ多数の男との性行為に耽る狂女が、自己の行状を正当化するために自分の前世は兎だと妄想するようになったのでは、という発言があってそういう捉え方もあるのだな、と思いました。その方は、この物語の構造について性描写・暴力描写・カタストロフ描写をしたいがために逆算されて作られた物語だと思う、なんてなことも言ってて面白かったです。

私は、兎は好色という連想から性描写の話が出しやすくなるし、兎は犬猫よりは人間と距離があるけどめちゃくちゃ人間の暮らしと離れているわけでもない絶妙な距離感があって人間を適度に突き放した視点から語らせるのにちょうどよかったんじゃないかな、と思いました。

 

しかし、町田さんは他の人の意見を拾って話を膨らませたりフォローするのがすごくうまくて流石でした。話し上手な人はやはり聞き上手ですね。

会が終わったあとも、同卓の方と少しお話できました。以前読んでいたという河合隼雄明恵 夢を生きる』という本の中に言葉で世界を切り分ける父性原理・全てを受け入れる母性原理という考え方が出てくるそうで、それと今回の物語を関連付けた意見を述べられていて、すごく面白かったです。

あとは、町田さんに直接今回の読書会の感想を言うことができました。普段自分で選んでは読まないタイプの生々しい描写てんこ盛りの短編集で初めは抵抗を覚えたけど深く読み込んでいくと意外と面白かったことを伝えました。あと、これだけは言わなきゃ!と思い、『宗教』と『沼』という作品が特に印象的だったこと、真の祈りや信仰の対象は崇高で手の届かないところでなく卑近で俗だったり下らなく見えたりするところにこそ宿り、だからこそ人間の切実な思いが表現されていると思いました…という内容のことを拙い言葉で吃りながら喋ったら丁寧に頷きながら「うんうん、そうなんだよ!それがまさに吉村萬壱の凄さなんです」と返してくれてめちゃくちゃ嬉しかったです。いっしょに写真を撮っていただき、握手もしてもらいました。感激です。去り際に、6月に名古屋であるレコ発ライブ観に行きます!新譜も楽しみにしてます!と言ったらニヤリと笑いながらちょっと気取った感じで「どうも。いま鋭意マスタリング中ですので」と答えてくださいました。カッコいいーーー(悶絶)

町田さんと話したい人や写真やサイン待ちの人たちがたくさん行列を作ってて町田さんは一人ずつ丁寧に対応してましたよ。紳士。とにかく浮かれすぎて緊張しすぎて、アンケート用紙書いたのに提出するの忘れてホテルまで持ち帰ってきてしまいました。

 

そうそう、今回来るのかどうか密かに気にしていた中学生の男の子も来てましたね。ちょっと今回の課題本が未成年には刺激的すぎるんじゃないか、神経に堪えるんじゃないかと勝手に心配していたのですが。その子がおずおずと「中学生でもこういう感じの過激な本を読んで良いものでしょうか…」と町田さんに訊いてて(やっぱり多少戸惑ったんでしょうね)、町田さんは年齢なんか関係ねえ!読んだったらええねん。ワイも若い頃からガンガン読んどったわ、みたいに答えてて

あとでNさんと場所変えてお茶しながらイヤイヤ、ダメでしょ

と突っ込んでしまいました。多感な年頃で読むにはけっこうキツい内容だと感じたので…。じぶんが中学生の頃って何読んでたー?私は赤毛のアンとか…みたいな話もしました。

Nさんは今回の本の内容はどうしても受けつけなかったそうで、分かりやすい狂気や汚辱を生々しく表現する手法ってはっきり言ってありふれてるし、一見正常で美しく見えるものの中に垣間見える狂気こそが人を惹きつけると思う。とのことでした。私はなんだかんだ言って今回の本は楽しく読めたのですが、Nさんの意見も分かります。とにかく、万人ウケしない本ではあると思います。

 

雨の大磯を駆け抜けて、平塚でNさんと話しながらお茶しました。

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駅前のコーヒーショップ。キャラメリゼしたチーズケーキと、あとウッカリして冷蔵ケースの電源プラグが抜けてたとかで「ぬるいチーズケーキは美味しくないから」と、アイスをおまけしてくれました。手相占いの案内があったり落花生の殻をコンクリートの床にばら撒いてたりして、独特な雰囲気のカフェでした。美味しかったし店員さんもいい人だったのでまた機会があれば行きたいな〜。湘南なんて年一回来るか来ないかですけどね。

夜はホテル泊で、スーパーでイチゴ買ってきて洗面所で洗って食べました。その日の夜はツイキャスしたけどなんか緊張してうまくいかなかった。

翌朝、だるいなーと思いつつまた4時間かけて松本に戻りました。ピース。