buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。

町田康さんの創作論@さいたま20180922 その①

町田康さんの創作論を聴いたので、内容をメモしておく。

 

1.書くことを始める前に何があったのか

…17才ぐらいの時、人のつてで雑誌に何か書くように頼まれたのが町田さんが初めて文を書いた経験だという。その時は本当に何も書くことがなくて、当時取り組んでいた音楽活動について紙に殴り書きをして編集者に渡したらしい。

「ちょうど音楽関係のイベントを教会でやってて、教会で待ち合わせて原稿渡したのを覚えています。その編集者は僕の書いたやつを読んで実に渋い顔をして、でも半ば自分に言い聞かせるようにイヤ、こういう文が欲しかったんですとかなんとか言ってそれで別れたんですけど。その人なんかしばらくしたら紐育に渡って、数年後日本に帰ってきた時には無気力な人間に変わり果ててました。僕の書いた文のせいだったのかも」

と語り、会場に笑いが起きた。

あとは、20才の時に別の編集者から美術雑誌に何か書くように頼まれ、例によって大して書くことがないから仕方なくまた音楽活動のことを書いたらしい。

そっから10年は何もなくて、30才ごろからまとまった読書をするようになったがその過程で「自分は“書く”側の人ではない」と思ったそうだ。とにかく文章というものについての特別視、畏れの感情が強かったとのこと。

そんな折、こんどは同人誌に日記の連載をすることになったらしい。小説とかは無理だが日記ならなんとか書けると思って引き受けたとのこと。この時、町田さんは“書く”ことの中心を掴んだ。他の執筆者に比べじぶんが一日あたりの日記に費やす原稿の枚数が多いのに気づいたが、

出来事を直截的に記すのではなく、迂回して言葉を連ねる

というところに自らの創作性を見出した。この“迂回”というキーワードは先日山梨で行われた井伏鱒二についての講演でも口にされていて、町田さんが創作する上で重要視していることがうかがえた。町田さん曰く、書くことに対する畏れが言葉を連ねさせるのだと思われる、とのこと。

 

2.なぜ書くことがこわかったか

…素晴らしい文章を読んでしまったので、文章というものは軽々しく書いていいもんじゃない、という意識が醸成された。

読むということは、耳をすますことであり、畏れを抱くこと。じゃあいったいどれくらい読めば文章を書いてもいいのかということになるが、「同時中継はダメ!」と言っていた。

町田さんは文芸賞の審査員として多くの作品を読む機会があるが、文を読まない人の書く作品はカッコよく見せようと取り繕っていてもすぐ分かってしまうそうだ。

「書く時にええカッコするな、読んでないことはすぐバレるから。ちゅうことです」と言っていた。ものを書くとき、時間差、落差を表現していることが大事。奇想天外な着想はあくまでもスパイス。すなわち、物事を受け止めてから自分の中で消化し、アウトプットするまでの時間差が現れた文でなければ面白みは生まれない。

「コメンテーター、評論家にはなるなということです。コメンテーターは特にあかん。あんなん起こったことをただ実況してるだけやんか。悲惨な事件が起こったら悲しいですね〜とか言うて、そんなん見ればわかるっちゅうねんアホか」と、たまに大阪弁で気焔をあげるところが面白くて痛快だ。

 

3.文体の話

…純文学向きの文とエンタメ向きの文がある、という話をしていた。

あとは思考・五感・文章の関係と、面白みのある文というのは単なる意味の伝達が目的でなく、文章そのものが目的であるという文章でなければならないと話されていた。

 

このあといよいよ古典を題材とした具体的な創作についての話が出るのだが、そこはいちばんボリュームのあったトピックでまとめると長くなりそうで、私は今日はもう疲れたのでこんど書きます。