buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。

町田康さんの講演会in甲府~井伏鱒二の笑いと悲しみ

町田康井伏鱒二の文学について講演をするというので、聴きにいきました。

場所は井伏鱒二が愛し逗留したという山梨県甲府市

何回か東京に行く機会が重なったので長距離移動についての感覚が麻痺して

「とーきょーに比べたらこーふなんて近い近い」

というノリで出かけたのだが、特急あずさで1時間以上かかるので普通に遠い。

交通費もかかる…。

 

山梨県立文学館。

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山梨県ゆかりの文筆家、井伏鱒二太宰治の原稿や書簡など各種資料が展示されているようだ。

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広場がなかなかよさげ。芝生で寝てる人、いいね。

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これこれ、講演会のポスターね。私以外にもポスターにスマホのカメラを向けている

人がぽつぽつ居て、あなたも町田康ファンなんですねウフフ。と思って見てました。

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聴衆はやはり老若男女さまざまな層の人が来ているな、という印象。

運よく最前列の席に滑り込むことに成功。

隣のご婦人方が町田康の作品や音楽活動などの話に花を咲かせていて

「ぶっちゃけ井伏鱒二の話じゃなくて町田さんご自身の話が聞きたいですよねオホホ」

と言ってて、やれやれと思ったがまあ気持ちは分からないでもない。

 ちなみに町田康の講演はたいへん面白く、終演後くだんのご婦人方も

井伏鱒二の作品読んでみたくなりましたね~」と言い合っていたので

良かったのではないでしょうか。

 

ちなみに私自身が井伏鱒二に抱いてきた認識というのも

「なんや知らんが私の大好きな太宰治の師匠で、町田康もリスペクトしてるらしいからちょっと作品読んでみるか」ぐらいのものなので、他人の不見識を笑える立場ではない。

井伏鱒二の作品をいくつか読んでみて抱いた感想は、情景描写がうまくて自然とか

人物の対話とか目の前に浮かぶようで非常にこなれた印象を受け、

ひっかかりなく快適に読めるのだが全体としては作者がなにを言いたいのかあまりわからない、主題が掴みにくい…というものである。

なので、今回の講演会を聴きに行ったのは演者の町田康のファンだからというのも

もちろんあるが、井伏鱒二の作品の読み解き方や魅力を知りたいと考えたからでもある。

 

まず一番最初に講演会のながれについて説明があった。

1.井伏鱒二との出会い

2.どこに惹かれるか

3.井伏鱒二の作品の良さ

4.モヤモヤした雰囲気の背景に何があったのか

5.いまの時代に井伏鱒二を読む意義

 

…町田氏のことだから喋りすぎて時間配分が予定通りにいかなくて

最後駆け足になるんだろ~な~と思っていたら本当にそうだったので

内心可笑しかったが、そこはご愛嬌。

 

 

1.導入部分で井伏鱒二との出会いについて。

10代の音楽活動を始めた頃に友人宅の本棚に並んでいたのを手に取ったのが

最初の出会いだった由。

「まぁ僕もいまや伝説のパンクロッカーと言われていますが」といたずらっぽく言ってたのでニヤニヤしてしまった。

「当時まわりの音楽やってるひとたちって、耳で聞く音優位派がはんぶん、言葉優位な文学派がはんぶんという印象でしたね。仲間の部屋に遊びにいくと本棚には小説が沢山ならんでいる訳です。僕なんかは断然音優位派だったけれども、そういった環境に影響されて自然と文学作品に触れる機会が多くなっていました。そんな流れで井伏鱒二の本も読み始めたのです」

町田氏の発言をうろ覚えで書き出しているので細かい言い回しの違いや齟齬がありますが大体こんなことを言っていたと私は理解しましたってことで、よろしく。

最初に読んだ『珍品堂主人』がガロのつげ義春の漫画に雰囲気が似ているなと感じたそうだが、何のことはない、つげ義春井伏鱒二の作品に影響を受けていたわけである。

 

「(音楽を例に出して)たとえば大槻ケンヂが俺に似た歌い方をしてたっていう人がいたけど、他人から大槻ケンヂみたいですねって言われたらイヤイヤ逆じゃ!こっちが先じゃ!みたいなね?

キャプテンビーフハートオシリペンペンズに似てる!っていう奴がいたら

いやいやキャプテンビーフハートの方が先じゃ!みたいな?…なんかマニアックな話してスミマセン。一応いっとくと僕自身は大槻ケンヂが僕の真似してるとは思ってませんから!」

ここで笑いが起きていた。

 

あとなんだろう、井伏鱒二は晩年(1980年代後半~1990年代初期?)TVインタビューを受けていたようで、その物真似をしていて面白かった。

井伏鱒二はもうおじいちゃんで、いかにもこう井伏鱒二ですという佇まいで座っている訳です。で、インタビュアーの若い女性アナウンサーは恐らく井伏鱒二の作品とか読んだこともないし知らない、そんな感じなんです。それで相手がおじいちゃんだからっていうんでアホみたいな、わけわからん人に相対するような、幼児にするような感じでしょうもない質問するんですよ。カラオケってご存知ですかぁ?ってアナウンサーが質問したら、こう(井伏鱒二の真似らしく、顔をぎゅっと顰めて半目になりつつ

上体を傾け掠れ声をつくって)カラオケぇ~?桶をどうにかするのかねぇ~」

会場爆笑。

「それで、最後にアナウンサーが“まだ小説お書きになるんですか?”って訊いたらね、井伏鱒二はこう答えるわけです。(また顔真似をしながら)うん…馬鹿なことばっかりしてぇ~(と、素に戻り)僕はそれを聞いてシビれましたね。ヨボヨボになって死ぬ直前までオレは馬鹿なことばっかりしててねぇって自嘲しながら物を書き続けるなんざ、最高じゃないですか」

また会場爆笑。

 

 

2&3.井伏鱒二の作品を「屈託」というキーワードで表現していた。

屈託と言うのは、出口が無い気持ち。自分が世に出られない、自由になれない、自分の中でひたすらうずまくような気持ち。

井伏鱒二の代表作『山椒魚』なんかはまさに狭い穴ぐらから出られなくなった屈託の象徴のような話である。

町田氏が井伏鱒二をよく読んでいた1987年ごろというと世はバブル&バンドブーム。

町田氏が活躍できるような場はなく、やることがなくてひたすら自宅にこもっていた時期だったそうだ。その頃の自身の鬱屈した心情が、『山椒魚』の“土中三年”の気分にシンクロ・共鳴したのだという。

 

また、「屈託」と同時に「曲げ」も井伏鱒二を知るうえでは欠かせない要素だ。

 

「屈託っていうのは、滑稽味、ユーモア、味わいのカーブ。曲げにつぐ曲げ。

井伏鱒二の作品って、表現が直接的じゃないんですよ。主題を明言しない。

愛のすばらしさー!とか、平和の重要性ー!とかみたいに、テーマを明確に主張したりはしない。なんちゅうのかなあ、一般的に小説を書くときは設定とか登場人物の性格とか状況とか、そういうのに作者の主張を投影させるもんだけど、鱒二の場合はそうじゃなくて文章全体ににじみ出ているわけです。

表現が屈曲・迂回するんです。

そうだなあ、歌でいうと直球表現が演歌やブルース(哀歌)だとしたら、なんだろう…レゲエとかになるのかな?」

 

 おっ核心にせまってきた。ところどころ音楽に喩えるところが、さすが町田氏。

なぜ曲げるといいのか。

曲げることによって何が生まれるのかというと、ユーモアと飄逸。

屈託とユーモア、滑稽味と物悲しさが渾然一体となっておもしろさが生まれるのだという。

 

 

ここで、実際の作品を適宜引用して朗読しながらの解説にうつる。

『ジョゼフと女学生』

ここでいきなり町田氏が、鱒二って勉強できない女の子に男が勉強を教えるシーンを色んな作品で描いているんですよ。鱒二は勉強できない女の子に教えるフェチなんです。

と言ったので笑ってしまった。確かに。

この作品でも屈託や曲げが多用されており、異性交遊の話が急に貧乏の話になったり、

文体がわざと不自然な翻訳調になったりする。ここに可笑しさ・ユーモアが生じるわけである。

4.町田氏の解説によると、当時の時代背景にプロレタリア文学の台頭・文壇の左傾化があったという。文壇の左傾化に与したくない、そういうのに縛られずに自由に表現したい、時代が左傾化しろと圧力をかけてくるけれど左傾化できない・したくないという葛藤がこのような表現方法を生み出したのだと。

 

『朽助のいる谷間』

では、ダムの底に沈む村に棲み処があった鳥たちが集っているところへ石を投げて残酷にも追い払うシーンを取り上げた。

鳥は元の棲み処を追われるものの、将来的には別のよい棲み処をみつけてけっこううまく生きていけるかもしれない。

話の展開としては、「曲げ」と「直し」が次々と重なりかんたんに決着することなく続いていく。人生も書くことと同じで、曲げと直しが決着せず延々と続いていくのだというメッセージが読み取れるとのこと。

 

5&質疑応答

・実際に読み手を意識して小説を書いていると「曲げる」のはこわい。直接的に主題を表現し、結論を急ぎたくなってしまう。「曲げる」のはそんな書き手自身の恐怖心との戦いだ。しかし、決着にむかって最短のルートを辿るような小説だけをよしとするのは如何なものか。「曲げ」によって生じる味わいを大事にしていきたいとのこと。

 

井伏鱒二の「屈託」と「曲げ」の文学から何を学べるか

→時代の空気に染まらないこと。発散せず吸引する。(現代は発散することをよしとする風潮に傾きがちだが、吸引することもだいじなのではないか)

対象をしずかに観察すること。過剰にせず、引き算をしていくこと。

 

 ・井伏鱒二を読んでて、「屈託」「曲げ」ばっかりだと嫌になることはないのか?

もっと明快にして欲しくなったりしないのか。

→ならない。読み手が嫌にならないように絶妙なバランスをとっているのが小説家のすごいところ。文章というのはスローガンではない。

純粋な「いい」も純粋な「いやだ」も実際には存在しないので、そういうのが渾然一体となっているさまを表現しているところがいいと思う。

「たとえば、おいしい牛乳という名前の商品がおいしいとは限らないじゃないですか、ネスカフェゴールドとネスカフェゴールドエクセラがあったらどっちが良いのか、みたいな…」

って、まったくたとえ話がピンとこなくて笑った。

 

・町田氏が井伏鱒二の文学から受けている影響はあるか

→影響受けてるとかいうのも畏れ多いレベルでリスペクトしている。井伏鱒二は仰ぎ見る山脈、山の尾根のような存在。しいて言えば、自分は大阪の人間やから過剰に足していく方向に走りそうになるので、「抑制」を心掛けるようにしている。

 

・町田氏と井伏鱒二の文学の共通項は?

→哀愁とユーモアが渾然一体となったところ。その境地に近付きたい。

 

レポート以上です。

講演できいた内容をより深めるために文学館内の展示も閲覧できたらよかったのですが、体調的に余力がなかったのでそのまま帰宅。