buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。

『椰子通信』を読んだ感想

少し前に、自費出版の小さな本を買った。不治さんの『椰子通信』だ。

不治さんのことはTwitterで偶然知った。
 
すでに椰子通信を買っていた或る人の「5歳ぐらいの頃、仲良くしていたけどいつの間にか引っ越してしまい、今では名前すら覚えていない友達を思い出す。静かで優しかった」という感想を読んで、ピンときたのだ。不治さん自身のブログやTwitterの文章にすごく惹かれたこともあり、この人の本なら絶対に面白い。絶対に読まなきゃ、と思った。
不治さんのブログ:
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本の装丁やサイズ感、紙の質感、イラスト、手書きの筆跡、文章の余白。
作者の細やかな気配りが凝縮されているのが実感され、ああ、紙の本がほんとうに好きだな、と思った。
『椰子通信』は、ごく短いいくつかの話によって構成される。ここでは私が『椰子通信』を読んだ感想を、とくに気になったお話を取り上げつつ記録する。
 ***
 
1. 【普通の話】
 大人はしばしば若者に向かって、今しかできない事があるよ、という助言を発する。では、今しかできない事って具体的には何なのだ?旅行なのか、海外留学なのか、パーティで馬鹿騒ぎをすることなのか。そういうのとはなんか違うよね、という内容の話。
 
語り手にとっての「いましかできない」は、夜道を線路沿いにしゃにむに歩き続けることだった。あまりの気温の低さに靴の中で丸まってしまう足先、自分を追い越していくすし詰めの電車をみて臭そうだなと思ったこと、車のライトに照らされると何故か後ろめたい気分になること、くさい野良猫がたくさんいる場所と、かれらに餌付けする胡散臭い人々。語り手を通して五感が刺激され、夜の情景が脳裡にひろがる。とても自由な感じがするお話だ。
 
限られた年代の若者にかぎらず、人間はつねに「今しかできない」を知らず知らずのうちに追求し続けているのだと思う。子供には子供の。若者には若者の。中年には中年の。老人には老人の。
世間的にみた有意義か無意義かの判定は、たいして重要ではない。追い立てられて義務感で探すたぐいのものではないはずだ。したくもない旅行や留学や乱痴気騒ぎを無理にしなくたっていい。強いて言えば、五感を研ぎ澄まして自分の感覚に忠実に。みんなそれぞれの「今しかできない」に専念すればよい。そう思って私は安心した。
 
 
2. 【見えない友達と再会する街】
 語り手が弟になんで友達をつくろうとしないの、と急に問われてぎょっとする話だ。それに対して語り手はどうも慎重になってしまって・・・と答え、弟は更になんでゴチャゴチャ考えるの、と返す。語り手は、弟ってこんなことを言ってくれるもんなんだなぁ、と感心して終わる。このあと弟の学校生活のはなしを少しした、という締めくくりの文がいい余韻だった。
近しい人がグッと懐に入り込んだ話をぶつけてきて、ぶつけられた方はビックリはするけど悪い気はしない、そんな情景が目に浮かんで小気味よい。生きた人間同士がちゃんとかかわりあってる、そんな感じがする。あたりさわりのない地雷をひたすら避けているような風情の話ばかりしてないで、ちゃんと生きた話をしないといけない。生きていたいのなら。
 
 
3. 【街の中で聞いた話(下北沢編)】
ただ、自分はあらゆる「会話」や「言葉」を探していた。他人の、全く接点のない人間の話をだ。ーお話より一部引用。
 語り手はそう述懐する。街で行きあっただけの他人の会話や言葉が妙に頭に飛び込んできて気にかかる、そういう感覚わかるわあ。と、意味もなく女言葉で同意したくなってしまう。大半は時が過ぎれば雲散霧消してしまうものだけれども、時にはずぅっと心の中に留まり続けるような、グッとくる言葉をキャッチすることもある。わたしは悪筆のうえ手書きの文字を書くのが面倒くさく感じてしまうたちなので、電車や喫茶店で気になった言葉を手帳に書きとめたりはしないが、twitterスマートフォンで眺めていて「これ良い!」と思う他人の言葉があると、すぐにスクリーンショットを撮り画像フォルダに保存してしまう。
いま、私のスマートフォンの画像フォルダは風景などの写真があまり無い。
twitterスクリーンショット画像だらけで、我ながら気色悪い。
 
 
4.【エンドロール/クレジット表記について】
  映画のエンドロールやクレジット表記のよさについて語られている。
私もエンドロールも見る時間が好きだ。本編が終わっても、エンドロールまで全部見届けて室内が完全に明るくなってから席を立つ派である。
ああ、表舞台に立っている俳優や監督の他にも、水面下でこんなにたくさんの人が関わって、ああしようこうしようと相談しながらこの映画をつくったんだなあ、と感慨にふけると、なんだか痛快な気分になる。裏方の名前なんてどうでもいいよ、という人だってなかには居るのかも知れないけど、私は裏方の人の名前だって重要だと思う。目立つか目立たないかは、存在の重要性には関係ない。
映画の中の世界がこちら側にグッと近付いてきてくれる瞬間は本当にたまらない。
(中略)ケータリングスタッフの名前だって必要だと思う。役者たちの食事を準備するという重大な役目を担っていたのだ ーお話より一部引用。
 
 
5. 【地震の話】
  特に鮮烈な印象を与えられたお話。東京でコンビニのバイトをする語り手の視線を通して、あの東日本大震災がおきたときに都会の片隅の日常はどんなふうに崩れていったのか、店に押しかけ大量の食料品を買い占めていく人々の描写を通じて生々しく語られている。
不穏な空気の中、語り手は動揺して心がぐちゃぐちゃになりながらも普段どおりバイト仕事をしなくてはならない。沢山の客がおしかけ、大量に食料品を買っていく。棚はからっぽになっていく。
…周囲は、自分が無事だったならそれでいいやみたいな顔をしているような気がして、どんどん疑心暗鬼になっていくのが分かった。
(中略) ありったけの肉まんやピザまんを蒸かしながら、頭がおかしくなりそうだった。こんなに沢山、今すぐに必要なのだろうか、と何度も思った。
(中略)正直言って泣きたかった。「あんたら死んでないじゃないですか、生きてるんだから生きてられるじゃないですか」と思った。意味不明だ。
(中略)肉まんたちの湯気で、私の顔はどんどん湿っていく。作業もメンドクサイ、後ろに長蛇の列。胃腸かよと思う。
それを察してか、肉まん類を買い占めたサラリーマンはこう言った。
「ごめんねえ、でもこれは地震のせいだからさあ」満面の笑みで言った。ー お話より、一部調整しつつ引用。
 
 
語り手であるバイトの心情を思うと、胸がえぐられる。仕事量がふだんより増えてウザイとかそういう話ではなく、何もわからない混乱と不安のなか大量の客を相手にし、それぞれの客の「自分だけはとにかく沢山の食品を確保して安心したい」というエゴを見せ付けられて疲弊して荒んでいくさまが、ビンビン伝わってくる。
その晩、家に帰るまで二時間近くうろうろした。頭の中を整理したい。何も分からないまま膨大な客を相手にし、心身がぼろぼろになった。顔がびっしょり濡れている。この水気は涙なのか顔の油なのかも分からないし、何より一つ一つの客の言動が許せなくなっていた。
地震が発生してから二か月弱経ったところでそのバイトは辞めた。
もっと人を安心させられることをしないと駄目になる、と思ったからだった。 -お話より一部引用。
 
 
6.【おねだりの行方】
 「ねだること」が苦手な子供のお話。
幼い頃、誕生日に連れてこられたテーマパークで何でも買ってあげるから欲しいものを言ってご覧と言われ、何を求めていいのか分からなくなる、しかし大人たちの機嫌を損ねてはいけないと仕方なしに風船を指差すと、「もっといいもの選べよ」と一蹴され途方にくれる語り手。なにもねだることができなくなってしまう。
どうでもいいや、どうでもいい。これが本音だった。別に誕生日だからと言って贈り物を貰わなければいけない決まりなどない。求めていないのだから仕方がない。なんて複雑な気持ちなんだろう。誰か理解してくれよ。熱狂うずまく夢のパークで、どうしてこんなに難しい顔をしているんだろう。- お話より一部引用。
 
私は、このお話をよんでいて太宰治人間失格の一節を思い出した。主人公の葉蔵が子供の頃、父にうまくお土産のリクエストをできなくて父の機嫌を損ねた!まずい!と恐怖し、夜中にこっそり書斎に忍び込み父の手帳にシシマイ、と書き込む。
別に獅子舞のおもちゃなんて欲しくもないのに、それなら本とかの方がよっぽどマシなのに、「本じゃなく、もっと子供っぽいおもちゃをおねだりして父を満足させねば!」という悲痛な使命感から、葉蔵少年は父の帳面に震える字でシシマイ、と書いたのである。ああ、かわいそうに・・・
ま、それは置いといて、不治さんのお話のほうの子供はもうすぐ帰宅する、というタイミングで欲しいものをみつけ、チャンスをものにする。パレードの観客が手にしていた、クルクル回転するライトのおもちゃである。
ひとすじなわではいかない、おねだりと贈り物の関係。
わたしもプレゼントやおねだりが苦手だ。欲しいものは自分で買って済ませたい。
 
 
7.【その他】
 数行程度のごく短いお話や、イラストや、手書きの筆跡によるお話があったりして、そこで生まれる緩急が心地よかった。雨が降る夜によぎった不思議な感覚、暗闇で気まぐれに行われる遊戯、ついー、と滑空する燕たちが中学生グループの頭上を宙返りして飛び去った光景、などなど。
 
 
8.【切なさだらけの島に住む】
 いちばんグッときたお話。結びの章である。
誰にも言えなかったんだけど、こんなこと考えたんだけど君はどうですかってずっと思ってた。この人にあのことを言いたい、と思う。
言っても仕方ないことばかりだからどんどんお腹の底の方にしまっていた。
不穏な空気を感じて引っ込めることが多かった。(中略)   言いたいことは山のようにあるのに絞り出せるのは余計な台詞ばかりなので、悔しさで弾け飛びそうになる。よくない傾向だ。
絶対いつか死んでしまうので、身体の様々な機能を使って暮らしている方がよい。
話の中でたくさん爆ぜた形跡がある。おそらくいつも満足していないからなのだろうなと考える。満足は、どうしたら「そうなる」んだろう、コロッケを思い切り頬張ることなのだろうか。違う。
ものをねだらないくせに満足もしないので、自分はとても悪い人間だと思う。
ー 一部調整しつつ引用
あまりにもこのくだりが好きすぎて、ほぼ丸々引用してしまった…。
 “絶対いつか死んでしまうので、身体の様々な機能を使って暮らしている方がよい”
という一文が、いまの私を支えている。死に急がなくても、とりあえず何者かから与えられたこの身体と精神をつかって色々ためしてみるのもいいかな、と思えたから。語り手の意図は「身体の様々な機能を使う=ガンガン運動しろ」ということでは無いはず。いろいろ自分で行動して出来事に遭遇して考えをめぐらして生きるのがいい、という意味だと私はとらえた。
 
***
 
大きく派手なイベントがなくても、人間として生きている限り常になにかしら感じ取り、考えをめぐらせている。おそらく誰でも。
あの電柱のよごれ顔にみえて怖いなあとか、お茶からたつ湯気って薄くて上等の布をひたすら上に手繰っているように見えなくもないなーとか、私って電車乗るたびにイヤホンのコードの絡まりをほどくのに必死だな…とか。
この感じこの会話この出来事この風景、覚えておいたら面白いんじゃない?という微妙な感覚が舞い降りても、日々の用事に追われてそんな感覚の大部分を忘れ去ってしまう。いつだって後に残るのは、なにか大事な事を忘れてしまったという切なさと、私は何を馬鹿なことを…という自嘲の念だ。
 
わたしが椰子通信を読んで「静かで優しい。精神がチューニングされている感じだ」という感想をもったのは、派手なエピソードや言い回しに凝った大仰な格言なんかには頼ってなくて、誰でも日々行き当たるような出来事を素直かつ細やかに表現しているからだと思った。それ、わたしもわかる!わたしにもこういうことがあったの!聞いてよ!と思わず言い募りたくなってしまう。
うまく言えないけど、いじけていないで のほほんと生き延びよう…という心境です。いま。