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buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。

なんだか敬虔な気持ちだわ。

<宗教全般>

私はキリスト教徒ではないが、キリスト教には興味がある。

 

なぜならば自分が面白いと思う小説、絵画、音楽、ゲーム等のなかに聖書・キリスト教関係の題材が取り入れられている事が多いからである。

いま思いつくままに並べると、書籍(小説家)なら太宰治坂口安吾サリンジャードストエフスキー、サマーセット・モームの『人間の絆』。

絵画なら、西洋の宗教画全般、アウトサイダーアートの代表者であるヘンリー・ダーガー

音楽の歌詞(ミュージシャン) なら、パティ・スミス、ハロウィン、ソニック・ユース、マリリンマンソン。

ゲームなら、プレイステーション真・女神転生シリーズ。

 あと、最近哲学を少し勉強していて、聖書が哲学や思想、文学に与えた影響が無視できないほど大きいことを認識できたので、なるべく聖書とかキリスト教の知識を蓄えようと思っているというのもある。

 

残念な事に、日本において大多数の庶民は『宗教』という名がつく全てのものを、全般的に胡散臭い、詐欺めいた物として日常生活から遠ざける傾向がある。と言うと、いやー、お盆の墓参りとか、初詣とか、クリスマスとか、宗教的な行事はやってるんじゃないですかあ?日本の民衆も。という人があるが、あれはイベント性を楽しんで消費しているだけで、宗教の本質である信仰とは遠いものだと思われる。

 

というわけで、宗教の教義についての本質的な議論がわが国において避けられがちなのは、おそらく○○の証人、○○真理教、○○の塔あたりのカルト宗教・新興宗教の派生による弊害である。だれかが人を救うための真理を追求しても、その真理を自分に都合よくデフォルメし、私腹を肥やす道具として利用するものが現れて、肝心の真理がうやむやになってしまうのが世の常である。なにかを勉強するにあたっては、ほんとうに必要な事と、心を惑わす雑音にしかならない事の取捨選択が重要だなぁと思う次第である。

 

で、きょうはN教会に行って来た。キリスト教の思想とは別に、教会という建物の雰囲気は昔から好きである。荘厳でほの暗くて静謐で。司祭の説教を聴く。キリストと弟子たちが湖の舟上で嵐に遭遇したエピソードを題材に、

「じぶんが安泰で楽な状態の時に神を称えるのは簡単だし、自分の信念は強固なものだと自信満々でいられるのは当たり前のこと。問題は、自分が逆境に置かれたときに、信念を捨てずに、神を疑わずにいられるかどうかだ」ということを司祭は話していた。

過去の拙ブログのエントリ

旧約聖書の『ヨブ記』を読んで・・・応報思想の超克 - osenpe のブラ・ブラ・ブラフマー日和★

でまとめたヨブ記の感想文と通じるものがある。この感じだと、じぶんの聖書の勉強もそんなに的外れというわけでも無さそうだぞ、と悦に入りながらミサを傍観した私。説教は適当に聴いて、あとは教会内部の装飾とかを眺めていたのだが、ふと、ステンドグラスのキリスト像と、壁にかけられた幾つかのキリストのレリーフが気になった。

急に話が飛ぶが、「聖☆おにいさん」という漫画がある。仏陀イエス・キリストが立川の安アパートを間借りしてバカンスを楽しむ、という趣向の破天荒なギャグ漫画である。

聖☆おにいさん(1) (モーニングKC)

結構細かい仏教ネタや聖書ネタが細部に散りばめられていて、おもしろい。聖☆おにいさんの中で、キリストが「画家の方々が私の絵を描くときって、大抵具合悪そうな顔ばっかり描くんだよね!どうせなら、ピースサインとかして魚ムシャムシャ食べてるときの活き活きした表情を描いてくれないかなあ」と仏陀にぼやくシーンがある。で、仏陀は「まぁ、言っても磔刑が君のクライマックスシーンだしねぇ…」「それを言うなら私の場合は、太った時期の顔じゃなくて、スリムだったときの顔を仏像とか絵に残してほしかったな!」と返す※細かい内容や言い回しは違うと思うけど、だいたいこんな感じということのだが、私は、厳かなミサの最中に、そのシーンのことを思い出してしまったのですな。

で、教会内のキリストの絵やレリーフ。本当にことごとく具合わるそうな顔のキリスト。具合悪そうなキリストの顔が10体以上並んでいるのである。もう、何か笑いのツボに入ってしまって、終盤は笑いをこらえるのが大変だった。といって、別に馬鹿にしたり冒涜してるわけじゃないんで。聖書とかキリストとかまじでリスペクトしてますんで。怒らないでください。平にご容赦ください。神よ。主よ。聖霊よ。