読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。

見えてるものを見ようとして~藤子・F・不二雄の容赦なき人間性探究 (其の一)

<本>

藤子・F・不二雄短編集① 『ミノタウロスの皿』

 

藤子・A・不二雄が大人向けのダークな作風の漫画家で、藤子・F・不二雄が子供向けの健全で明朗な作風の漫画家だ、という浅薄な認識を一変させられた作品集。

人間性に付随する深淵・闇・邪悪性・愚かしさ・不条理さ・残虐性等の、一見ネガティブな要素からも目をそらさず、人間の持つ良いものも悪いものもしっかり見据えようとする者でなければ、真の希望や明るさは描ける筈もない。

短編集『ミノタウロスの皿』より、特に感銘を受けた数編について感想文や概要をしるす。

 

1.『自分会議』

あのときの人生の岐路で、これじゃなくてアレを選択しておけば…

今までの人生、余すところ無くベストな選択肢だけを選べていたら、自分の人生もっとバラ色だったんじゃないか!?…

みたいな詮無き自問自答は、多くの人が経験しているのではなかろうか。

この話では、学生時代をボロアパートの一室で過ごす主人公のもとに、タイムトラベルによって様々な年代の主人公たち(壮年期・中年期・老年期)が訪れ、各々が「これから俺のアドバイスに従って選択しろ!俺はベストな人生コースを選びなおしたいんだ」と主張するのだが、その主張が主人公たちの間で食い違って、もめてしまう。

そこで学生時代の主人公が

けっきょく「自分は他人のはじまり」ということか・・・・・・

 と述懐するのだが、同一の人間のなかでしばしば生じるアイデンティティの対立を端的に言い表しているように思う。おなじ一人の人間でも、時期が違えば別々の考えを持った他人みたいなもの。絶対的な不変のアイデンティティなど、ホントはどこにも存在しないのかもしれない。

 

この漫画と、仏教の諸法無我の思想について関連付けたブログ記事があったので

参考に載せておく。

自分は他人のはじまり - 滴了庵日録

諸法無我の意味に興味をひかれた。

諸法無我 - Wikipedia

仏教のことももっと知りたい。

 

具体的には、様々な年代の主人公たちは学生時代のじぶんのもとに突如として転がり込む3億円相当の山林をどの時点で売却すべきかを議論していて、その売却時期についての意見が食い違っているのだが、要するに全員

「売却した3億円は、ぜんぶ俺に引き渡せ!だって、たった今の、現時点の俺の幸せこそが最優先だから」という利己的な主張に終始しているに過ぎない。

「じじいが大金持ってなんになるんだよ、若いうちにパーッとつかわせろよ!」

「なにを若造が!楽しみは老年までとっておくものじゃ!」

「中年こそ人生の盛りであるべきで・・・」

みたいな不毛な言い争いが続き、収束する気配は毫もない。

 

未来の自分たちの醜い言い争いに嫌気がさした学生時代の主人公は、もっと無垢で純粋な幼年期の主人公を呼び出し、君の意見も聞かせて欲しいといい、なおも言い争い続ける大人の自分自身たちをボンヤリ眺める。

「どんな別コースを選択し直したところで、結局しょうもない人生なのかな」

「アレがぼくの将来の姿かと思うと、イヤになっちゃう」

と。部屋の隅っこで涙をポロポロこぼして震えながら大人たちの争いを見守っていた

幼年期の主人公が、突如として窓の外に飛び出し、身を投げてしまう。

響き渡る悲鳴。持ち主のなくなったボロアパートの一室には、夜の月明かりが射し込むばかり。

 

2. 『間引き』

世界的な人口爆発が火急の問題となり、人々が食糧不足にあえぐ近未来の日本。

(この漫画の舞台は1980年で、世界総人口は45億人間近という設定。

かたや、現実では2014年現在、世界人口は約69億人。嘆息するしかない)

人心は荒廃しきっており、殺人やコインロッカーでの乳児遺棄が頻発している。

人命は急速にその価値を軽いものにしていきつつある。そんな世界。

 

主人公は、コインロッカーの管理人をしている老人。昔は情の深かった妻は、食糧問題が顕在化してからというもの、夫にもたせる弁当を出し惜しみ、空腹を訴えると心底鬱陶しそうな目で一瞥してくる始末。「昔はあんな女じゃなかったんだがなァ・・・」

衣食足りて礼節を知る、である。満員電車に揺られ、「また人口が増えた気がする」「それにしても女房の奴、腹立つなあ。イヤイヤ、怒ると腹が減っちまう。考えないようにしよう」と思いつつ、仕事場にむかう。索漠たる日常である。

そんな老人のもとへ、コインロッカーの乳児遺棄を社会問題として取材したいと記者が訪れる。

 

記者は、老人相手に人口爆発問題と昨今の人心荒廃との関連性について滔滔と弁じる。

「頻発する赤ん坊殺しは、氷山の一角に過ぎないんですよ。もっと根深い問題があるはずなんです」

「ご存知ですか?どんな種の生物にも、個体数の調節機能が存在するという説を。個体数が周りの環境リソースで支えきれなくなる前に、病気や自然災害、種内競争や捕食者による殺戮などで、あらゆる種の個体数は増えすぎることなく適切な数を保っているわけです」

「しかし、人間は自然界のなかでも異端児だ。はたしてこういう調節機構を備えているか。昔は、疫病や戦争がそういう調節機構として働いていたのかもしれない。しかし、人間は医学の進歩や農業技術の発展、人命尊重の思想などで、みずからこの調節弁を払いのけてしまった!」

「いまや人口増殖率は増え続けている。人類は自ら掘った墓穴にむけて、死の行進を開始したのです。果たして、人類の運命やいかに!」

 

日常生活で多くの人はあまり考えないようにしているが、人口爆発は深刻でデリケートで厄介な問題である。

だって、「じゃあ、減らせばいいじゃん」とは公の場では口が裂けても言えないからね。建前だけにせよ、人命尊重主義は根深く世界を支配している。

人口爆発による人類の衰退を避けたければ、思想レベルの大きな転換が不可避であろう。だって、人間の生活を支える地球の資源はもう現実問題カツカツだもの。

自殺や安楽死の奨励とか、延命措置の乱発をやめるとか、そういうまさにSFレベルの思い切った措置をとらないと、そりゃあもう人口はぐんぐんに増加して、資源は食い尽くされるであろうよ。それがイヤなら、人口爆発で死に絶えるのも仕方ないよね。

かと思えば、先進国っていうか日本ではやたら少子化少子化と騒ぐし、報道メディアではまるで子供の数さえ増やせばすべての問題は解決するくらいの口吻だが、そんな簡単な問題じゃないだろうよ。いかに子供を生み育てやすい社会をつくるか、という切り口だけでなくて、無理して人口を増やさなくても維持していける社会システムをいかに構築するか、という視点で考える必要もあると思うのだけれど。

 

作品に戻る。老人と記者が話していると、まさにコインロッカーに赤子を遺棄しにきた男女二人組みに出くわす。警察に捕まりながらも、彼らは悪びれない。

「あたしたちが何やったって言うのよ!自分がつくったもの自分で捨てて悪いのかよ!」恐るべき良心の欠如である。

 これを見ていた記者は、老人に言う。

「見ました?これですよ、僕の言った根深い問題というのは」

「あの女の子だけじゃない。近頃の社会現象全般から感じませんか?異性愛、肉親愛、隣人愛、友情…あらゆる愛情が、最近急速に消滅しつつあるのを感じませんか」

「長年絶対視されていた、生命の無差別的絶対尊重という道徳の基盤がひっくり返されつつある」

 

そういえば。と、老人は今朝疎ましげに老人を見送ってきた妻の顔を思い出す。

 

「そう思ってみれば、愛なんてものは、種の存続のための機能の一つに過ぎないんだよね。だから、これが邪魔になればとっぱらってしまえ、という事ですよ」

「自然の摂理というか、大いなる宇宙意思が介入してきたんですよ。」

「今後ますます、憎み合いや殺し合いは激化するでしょうな。」

「効率の良い間引きが行われて、適当な人口まで減ったとき、人類は再び愛を取り戻せるのかもしれません」

「昔の人は見抜いていたんですね、衣食足りて礼節を知る、って」

 

 

 

そう言い残し、記者は帰っていく。その後姿を見送りながら、立ちつくす老人。

もはや夜11時。そこへ、夜食を持った妻がやってくる。愛情を感じ、涙しながら夜食の握り飯を頬張る老人。しかし、その握り飯には青酸カリが盛られており、老人は身罷ってしまう。

「あなた、ごめんなさいね。あなたに保険かけて死んでもらうことにしたの。だって、あたしお腹が減ってしかたないんだもの」

無表情に老人の亡骸を見下ろす妻は、そう呟く。

サイレンからは、とうとう世界の人口が45億人の大台を突破しました、という速報が流れる。  

 

はたして愛は生存本能の機能にすぎないのか。極限状態において、愛という調節弁はあとかたもなく吹っ飛んでしまうのだろうか。愛を一度捨てた人間が、環境が落ち着いたからって再び愛を取り戻す事はできるのか?じぶんのために容赦なく蹴落としてきた人たちのことを忘却して?

わたしは愛のことはさっぱりわからないが、生存機能のひとつに過ぎないさ、と皮肉的に笑い飛ばすのは抵抗がある。愛の内包する可能性に賭けてみたいところではある。

しかし、藤子・F・不二雄氏の冷徹な着眼点には正直言ってしびれました。

(次の投稿に続く)↓

見えてるものを見ようとして~藤子・F・不二雄の容赦なき人間性探究 (其の二) - osenpe のブラ・ブラ・ブラフマー日和★