buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。twitter→@khufuou2

おれを導くな。教化すな

ZINEを買ったり新しく人と会ったりするのはしばらくもういいかなという感じだ。(あなたもそうでしょう?)ツイッターは最早他愛もないポエムや言葉遊びをする場ではなくて、説教くさい独善的な持論や人生訓が蔓延る場に成り果てているらしい。

近所の河原に散歩に行くのだが、ここ最近雨が降らないこともあり川の流れが変わって水が干上がり、かつて川の流れの一部だったところが小さな水たまりとなって沢山の小魚がひっそりと取り残されていた。私はそれを見て、畢竟自分もこの小魚と同じ運命を辿るのだと思わずにはいられない。魚として生まれたからには広々とした河川や大海原を颯爽と泳ぐ自分を思い描くのが筋だろうに、俺は稚魚の段階でこの分断された小さくてきったねえ水溜りでじわじわと干上がって死ぬる。地味に。惨めに。誰が好んで自分のことをモブだと思いたいだろうか。

痛切に死にたいと願いながら夕飯にピザの出前を取る。とりあえずそんな感じで生きていけば良いのではないか。

 

先月スタジオで装着してもらった口元のピアスのラブレットスタッドを外そうとしてみたが、思っていたよりきつく螺子が締められていてだいぶ難儀をした。滑り止めに手術用のゴム手袋をはめて両手で捻ったり、スタッドを前歯で固定してボールキャッチを捻ったり、押し花用に買った先の平たいピンセットでスタッドを固定したり(本当は先細のペンチがあればよかったのだが手元になかったので)、小一時間格闘してなんとか外すことに成功した。ピアスを外してもらうためだけに原宿のスタジオまで足を延ばすのは絶対嫌だったのでホッとした。ピアスホールに力が加わったため粘膜に若干ジンジンとした痛みが出てしまったが、今後注意してケアしていこう。

 

狭っ苦しい都市の狭っ苦しい部屋に住んで食いもんとか美術個展の写真をあげて俺はイケてるんだ何故ならばイケているとされている生活様式に則って生活しているから、とそう信じ込んで自分に言い聞かせて生きていけば良いんじゃないだろうか。塵芥にまみれて。

擾乱の気配

 

前世は兎 (単行本)

前世は兎 (単行本)

 

吉村萬壱『前世は兎』を読んでいる。3月に参加予定の読書会の課題本ということで手に取ったのだが、その物語世界は全編を通じて不穏さと擾乱の気配に満ちており、読んでいくうちに心がどんどん侵食されていくような思いがする。ざっと目を通すと生々しく無残なセックス描写、暴力、異常さにまず圧倒されるが、巧みな言葉選びと抑制的な筆致のおかげで意外とストレスなく読み通すことができた。とはいえ、不快感や嫌悪感を引き起こすタイプの作品ではあるので万人に忌憚なくオススメできるわけではない。

しかし、人は平和と安寧だけに生きるものに非ず。時には人間性の暗部に思いを致すのも重要なことかもしれない。

 

『前世は兎』

表題作。雌兎として生きた前世を持ち、常に性交に明け暮れる女が目の当たりにする世界の滅亡が描かれる。人間の世界は言葉と意味によって無惨に分断され破滅に至り、全ての名前が失われた均一で平穏な世界が顕現したかと思いきやそこにはすでに新たな言葉による新たな擾乱の萌芽が見てとれ、恐れをなした女は人里離れた場所に逃げていく、といったあらすじ。人間は言葉と意味によって分断され苦しみ狂うが、そこから逃れるすべはない、人間として生きるのはなかなか大変だ、といった感慨を抱いた。主人公の女も兎目線であれこれ人間の業を批判して持論を展開するけど、彼女自身が意味と言葉から逃れられてないし。兎的平板な世界と本能最優先な生き方をよしとするのならば、妊娠するたびに掻爬したり、男を性的魅力によって破滅させるほどの影響力を自覚して愉悦に浸る行為は不自然で矛盾しているのではないか。主人公の女もまた、人間の業と矛盾から逃れられず生きていくだろうことが暗示されているように感じた。

 

『夢をクウバク』

現実と妄想の境界が曖昧な世界で悪意と攻撃に怯え孤立していく家族が神経症的な筆致で描かれている。親子のやりとりは脈絡がなく不気味に噛み合わず、物語の鍵を握るらしい憂(一人娘)の言動も非常に散漫で内面を窺い知るすべはない。母娘のやりとりの噛み合わなさはサリンジャーの『コネティカットのひょこひょこおじさん』のエロイーズとラモーナのやりとりをなんとなく想起させ、ラストの憂が寝たまま口を動かし続けてやめないシーンは『フラニーとゾーイー』を想起させた。絶えず不安に晒されながらも、せいぜい750円の他愛もない貘の置物に一家の安寧を託さざるを得ない一家の矮小さと悲哀が感じとれた。

 

『宗教』

授業中に全裸になるという狂態を晒した末に休職中の女教師は、「スティレス(=ストレス)」を解消するために日々ヌッセン(大衆的な衣料品販売業者であるニッ◯ンのもじりでしょう)のカタログを書き写している。そこに復職or退職を迫る同僚や上司たちが訪ねてくるのだが…。

ストレスと気持ち良さは表裏一体であり、生きるための祈りという行為や祈りの対象は人それぞれで、他人が容喙することではないという主人公の持論を面白く感じた。

 

『沼』

腐敗した汚い沼にわざわざ浸かりにいく男女の様子が描かれる。収録作品の中でもとりわけ生理的嫌悪感に訴える描写満載で、拒否感を通り越して感心してしまうほどである。登場人物たちは、汚い沼に浸かることを洗礼と称して、吐き気と不快感を催しながらも醜悪なセックスをし、まだ見ぬ向こう側の世界に思いを致している。主人公は、不潔極まる沼を蠱惑的で悪そのもののようだと表現する。沼に浸かる行為が人間の暗部を探究する行為のメタファーなのかなと思った。清潔、理性、道徳、善、快だけに目を向けていても真理には辿り着けないよ、といった作者の信念を感じたのだが、どうだろうか。

 

『梅核』

喉の異物感に悩まされる小説家の独白という形式をとった短編。虚構と現実の狭間で狂った世界に従属して生きる狂った人々の様子が描かれている。人々は迫り来るテロリズムから目をそらしてちっぽけな桜の写真をSNSにアップしてはいいね!を貰って充足しきっている、あるいは充足したフリをしているのかもしれない。周りから狂人呼ばわりされて疎んじられた末に「みんな殺される、今年は桜が一本も咲いてない」と言って焼身自殺した北尾律子がほんとうは一番マトモなのかもしれず、淡々とした筆致もあいまって底知れぬおぞましさを感じさせる話だった。

 

『真空土練機』

ある日腰痛で立てなくなった女性会社員をとりまく人々の群像劇。なんていうか、人間ってみんなそれぞれ変てこで無様だよね、みたいな感想。小説に登場しがちな、思弁的でかっこいい端正な人が一切出てこないところがミソなのかも知れない。

 

『ランナー』

終末的で陰惨な世界で、国が開催するマラソン大会の選手に選ばれた姉(もちろん普通のマラソン大会ではない。私の考えでは軍の特攻要員の招集令状を突きつけられる感じなのだろう)。労働力として認められない者が手にできる唯一の栄誉とされていたが、出発前夜に姉は家を抜け出し…。

狂った世界のシステムに反乱して死に至る存在がはみ出し者・狂人として片付けられるという筋書きの中で、本当に狂っているのははみ出し者の方なのか?マジョリティ側ではないのか?と問うスタイルは本作を通して一貫しているように思う。今後リアルの世界が狂気と欺瞞に満ちていく過程で、私はおかしいと声をあげ続けることができるのだろうか。それとも、じわじわと水温をあげつつ茹でられた蛙は逃げ出すタイミングを掴めずに茹で殺されてしまうという逸話のとおり、狂気の渦に飲み込まれて流されてしまうのだろうか。そんなことを考えさせられた。

 

というわけで、全編を通して人間のグロテスクさと悲哀とをまざまざと見せつけられ、オナカイッパイである。面白い本ではあるが、積極的にオススメはしない(2回目)。それにしても、尻のでかい女の描写がやたら出てくるのは作者の性的嗜好ですかね?

人生が終わり、神になってしまう

温泉宿に泊まって一切入浴せずにチェックアウトしたり、売店で顔を覚えられて「いつも大福を買ってくれてありがとう」と言われるなどして生きてる。

昨日は雪が降り、職場の入り口に雪だるまが作られていた。

薬を飲むと元気がでるかわりに異様に食欲が亢進しブクブク太ってしまう。

薬をやめたら鬱になるかわりに食欲は減って痩せやすくなる。飲むのも止めるのもぢごくだ。懊悩&憂悶。

パソコンのOSのアップグレードに失敗して、過去に書き溜めた文章、ネット文芸誌に寄稿した文章のファイルが全部消えてしまった。でも別にいい、新しい文章がこれから幾らでも書ける。最近はあまり写真を撮らない。回転寿司に行っても、変なオブジェを見つけても。

そろそろ春だ。

花代がない。

とにかく教えたがり・道しるべが多すぎるのさ。だからもう案内板を見るのやめたんだ。

俺はもう35になるけど、未だに旅先での遊び方がわからない。こないだ町田市に泊まったけど、何をすればいいかわからないからSEIYUに行って苺と干し柿をbuy、ホテルの部屋の洗面台で苺を洗って食べた。陰鬱な、虚無的な気持ちで。干し柿にはやたらと種が入っていた。娯楽のためわざわざこんなとこまで来たのに怏々として楽しまず、ふさぎ込んで何やってんだろう?金も無いのに。ふぁふぁ、と哭いた。

次の日の朝、ホテルを出て帰途に着いたら八王子駅で桃の花を配ってた。案内係は無料ですよ、無料ですよ。としきりに強調しており、老若男女が行列をなしていた。どうせ花を貰っても、いまのわたくしには花を飾る瓶がない。花を飾る心がない。と、卑屈に考えた。疾く家に帰りたい。布団にくるまりたい。

春は斯様に憂鬱、でも無慈悲にライフゴーズオン。おれ、薬代と菓子代を稼ぐために生きてる。花代はない。ぬいぐるみを持っていて、本当に本当に良かった。

町田康と十返舎一九@池袋コミュニティカレッジ

池袋にて、町田康さんが「文学と笑い」をテーマに講義をするというので聴きに行った。題材は十返舎一九東海道中膝栗毛』。

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前から3列目のいちばん左端に座って待っていたら横をすり抜けるようにして町田さんが壇上に向かっていったのだが、その際ジャケットの裾が私の肩に擦れてウヒョヒョ、ラッキー☆と内心浮かれてました。気持ち悪くてすみません

 

導入部で、とかく世の中の人は「笑い」という文化を下に見がちであるが、それは違うんじゃないのかな。という持論を展開していた。

その例として某出版社からわりと昔に刊行されている『東海道中膝栗毛』の解説文をまず紹介。この解説者が中村という人物なのだが、自分が解説を担当している本にもかかわらず東海道中膝栗毛のことをわりと罵倒していて可笑しかった。いわく、教訓や上品さや道徳や勧善懲悪などのためになる要素が皆無でふざけきっている、と。

この「笑い」を軽侮する姿勢は1980年代の吉本新喜劇に関する評論文にも通じるものがあるのだそうで、当時の雑誌から吉本新喜劇に関する文化人たちのコメントをピックアップして読み上げていた。高尚っぽいものをありがたがるのは空っぽの神棚を拝むような愚かしさをはらんでおり日常の生活に根ざした「笑い」の文化は人類の叡智である、ということを繰り返しおっしゃっていた。

「自分なんかは昔から『その神棚空っぽじゃないか』と言って神棚をあけてみようとするたびに人から止められ殴られてきましたからね。みんな本当は神棚の中が空っぽだってバラされるのがこわいんですよ」

と語っていたのが意味深長だった。

東海道中膝栗毛』を味わうためのコツとしては、その場その場の「笑い」の背後にある人間の考えを汲み、根底の面白さを見いだすことの重要性に触れていた。

悪い例としては、きくラジ(?)で放送されている弥次さん喜多さんのラジオドラマがめっちゃつまらないんで反面教師としておさえといて下さいと言っていた。ボヨヨンみたいな間抜けな効果音を出したり、おどけた声音を多用するなどの表層的かつ安易な「こういうのやっとけば面白いんでしょ」感は笑いへの冒涜だと力説していた。

東海道中膝栗毛』の醍醐味は、とにかくやってることがムチャクチャ・フリーダムで作者自身がふざけ散らかしているところであり、ふざけ=解放を体現しているとのこと。それに付け加えて、よくある「小説ってなんのタメになるの?役に立つの?教訓はそこにあるの?」というような実利主義的ご議論をチクリと揶揄していて痛快だった。

そのほか、作中に出てくるエピソードには言葉遊びのほか落語の要素もあり漫才や劇のような要素もあり、現在のお笑い文化に通じるあらゆることが網羅されているというのが特色とのこと。

この講義に参加するまでは『東海道中膝栗毛』について、なんか昔の言葉遣いで難しいしとっつきにくいと感じていたのが徐々に面白さを見出せるようになり、3D画像の鑑賞方法を会得した時の感動に近いものを得られた。やっぱり笑いを感じ取れるようになるには一種の訓練・鍛錬が必要であるよなあ。と思った次第です。

 

(余談)講義が終わったあと、共に離れた席にいた友人Nさんと合流。町田さんにあわよくば話しかけたい気持ちもあったが今回はサイン会などはないし、ちょっと遠くに町田さんの姿が見えたけどほかの参加者とおぼしき人たちの応対をしていたのでなんとなく近寄るのも気がひけて あー…まあいっかと30分ぐらいNさんとロビーで談笑し、そろそろ帰りますか〜とエレベーター乗り場に向かったらもうとっくに帰っただろうと思っていた町田さんがふらっとそばを通り抜けたのに気づいて「あっ!」と叫んでしまった。

町田さんは立ち止まって

「ああどうも、雪だけど電車とか大丈夫でした?」と声をかけてくれた(私もNさんも頻繁に町田さんの講義やライブに行くのでなんとなく顔を覚えられている)。マジ紳士。次の何処其処でのライブ観に行きます!楽しみにしてます!などと言いつのる私たちに笑顔で応対してくださり「帰りも、お気をつけて」と言ってくれた。マジ紳士。本当にラッキーでした。

 

あとは、原宿でピアス開けたりほかの友達と会ったりして一泊して帰宅しました。ピース。

食についてのメモ

摂食行動に問題を抱えていることは事実だが、過食によってストレスと闘ってきたこと、食べ物は悪者でなく救いであり続けてきたことについては認めなくてはいけない。だいぶ太ってしまったが、これは鬱期を生きながらえる為にはある意味必要なことだったのだ。

とはいえ食べ物でひたすら現実のストレスと闘うフェーズは終盤に差し掛かっており、次なる進展を求めて食生活を見直さなくてはいけない。やっぱり体型を整えてもっと綺麗になりたいし、健康にもなりたい。

 

飢餓感をひたすら我慢することは私には難しいので、脳をうまく宥めすかして過食から気をそらす方法が良さそうである。たとえば、食べるスピード。もともとかなりの早食いで、大人一人前の弁当を5分で完食する程度のスピードだが、これでは満足感があまり得られない。試しにきょう昼飯を出来るだけゆっくり食べて、まあそれでも15分から20分程度で食べ終えたのだが満足感がだいぶ違った。これからもはやる気持ちを抑えて、努めてゆっくり食べようと思う。

あと、痩せてた時期を思い返すとやはり食に拘泥せずあれこれ他の好きなこと気になることに注力していた。結局のところ、痩せていたければ余剰なカロリーを摂取する機会を無くし、活動エネルギーを増やすという観点から摂食以外の活動を充実させるしかないのだ。いやー、基本であり分かりきったことなのだけれども、鬱状態だとこれが至難の技でもっぱら食べ物に頼ってしまうのだな。でも、今少し鬱期から脱しつつあるので良い機会だから食への過度な依存を抜け出す工夫をしていこうと思う。

今日は努めてゆっくり食事をしたし、手紙を書く、筋トレ、ジム通い、家事、睡眠など食以外の活動を充実させたのでダラダラ食い・ドカ食いを阻止できた。この調子でやっていこうと思う。休日はまあいいが、ストレスが溜まりやすい平日の過ごし方が鍵を握りそうである。

 

 

文に生きる

こないだ俺は面白いツイキャスを聞いて、それは自分以外に聴衆がいない喋りだったのだけれども面白い話かどうかは聴衆の数には関係がない。この俺が面白いと思うかどうかが肝要なのであり、俺一人しかリスナーがいないラジオ番組、俺一人しか読み手がいない小説だってあって然るべきだ。

読書観についての話だった、その人は物語で最も重要な魅せる要素は文体であって、話の展開とか筋は二の次だと言っていて俺は自分もそう思うと強く感じたのだった。内容はもっともなことを言っていても響く文と響かない文があると別の人も述懐してて、俺はそのこととも繋がっていると思うのだ。

前に町田康が、小説の文は話の内容やあらすじを伝達するという手段である以前に、文そのものが目的でなければならない、文そのものに書き手は奉仕せねばならないと言っていたこととも符合する。

この世の大抵の事柄は、必ずどっかで符合することになっているのだ。それは特別なことであると同時に、ありふれたことでもある。

文とともに生きる。文で生きる。文に生きる。

ハイパースピードでおれは

将来を長い目でみて今は自重しておこう、手堅くやっていこうみたいな守りの姿勢が無性にダサく感じて服を脱ぎ散らして叫びたくなる。

もっと刹那的にこの瞬間を駆けぬけようよ。高速&衝動で。

そう思ってこの土手まで来ました。

生まれたからにはその「生」そのものが答えであり、極楽であり、辺獄であり、滅亡なのであります。生に何故と問うな、描く意匠を問え。

道が金色に光っていますが、あれは希望とかでは別に無く、ただの太陽光に照らされて眩しく見えるだけなのでそれ以上でもそれ以下でもない。

幻想的な夢

ウサギとカメが夜空を歩いて旅する夢を見た。ふだん見た夢はほとんど忘れてしまうのだが、第三者視点の夢を見るのは珍しいので目覚めても覚えている。多分昼間にミヒャエル・エンデ『モモ』に登場するカシオペイアという名の、甲羅に文字が浮き出るカメのことを考えたのが影響しているのだろう。

海と空には巨大な氷の橋が架かっていた・あるいは氷の柱に貫かれていたのが印象的だった。

 

その前に見たのは独裁者に虐殺される夢だったり、巨大な宇宙エスカレーターの夢だったり、古塔を行軍する夢だったりした。むかし都市部に住んでいたとき通っていた喫茶店もよく夢に出てくる。

実にいろんな夢を見る。