buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。twitter→@khufuou2

町田康さんとの読書会 in 大磯 (中原中也の詩集) ①

町田康さんを囲んでの読書会が大磯でひらかれるというので、

町田康ファンの私は松本から片道4時間かけて大磯を目指した。

(以前町田さんの講演会を聴きにいったことがあるが、

町田さんの話はめちゃめちゃ面白いので今後そういう機会に恵まれた人は

ぜひみんなに聴きに行ってほしいです。)

 

課題本は中原中也の詩集、『山羊の歌』『在りし日の歌』。

定員30名、会場はmagnetという名のカフェ。

 

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張り切りすぎて受付け開始の40分前に大磯に着いてしまった。

 仕方ないので、とりあえず海を見に行く。

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受付開始は15時で、スタートは15時30分から。

もう15時になったので会場のカフェに入ると、

先着の参加者がすでにけっこういる。

ほんとうにこぢんまりとした、ぐるりと四隅を見渡せるくらいな広さのカフェである。

4人掛けのテーブルに着席してキョロキョロしていると、

なんと前方に座っている町田さんを発見。渋茶を飲んだような神妙な面持ちだ。

スタートと同時に楽屋的なところから扉を開けてみんなの拍手と共に登場するのかと思ってた。

 

参加者のあるものは今回の課題本をぱらぱらめくりながら、

あるものは連れと小声で話し合いながらも

みんな町田さんのほうをうかがっている気配がする。

しばらく静かな時間が流れたところで、町田さんが口を開いた。

「あのお、僕なんかもそうなんですけどこういう場で大人数の前で

挙手して意見とかいうのは恥ずかしい方もいるでしょうからそういう場合は

手元にあるアンケート用紙に意見なり感想なり書いてくださいね。目通しますんで。

もちろん発言できる人はどんどん発言してください」

町田さんの発言の一言一句覚えているわけではないが、だいたいこんな内容のことを言っていたなということで。以下も同様。

 

この静寂のなかで会のスタートを待っているのが手持ち無沙汰になったのか

気まずくなったのか、町田さんは誰にいうともなく話し出した。

「いやあ本当はこんなに早く着くつもりはなかったんですよ。

時間を間違えてて。遅刻やと思って入ったら30分早かった」

会場に笑いがおきて、すこし緊張がほぐれる。

静寂のなか続々と参加者が入ってくる。

それでもまだ開始時間までは15分ほどある。

町田さんは静かな空気のなか待っているのがいよいよじれったくなったらしく

「もう始めようか?始めてもいいですかあ?」

と主催者に言って、まだ来てない方がいるので…とやんわりおさえられていた。

ああやっぱりエッセイとかで書いているとおりせっかちな性分なんだな、

と嬉しくなった。

そのあともやっぱりじっと待っているのが落ち着かないようで

「しかし…神の御国においてはあとの者が先になり、先の者があとになるとか言いますが、キリストはよく言ったものですね。実際は先に着いた人はこうやって待つしかない。あ、皆さん後からきたひとには優しくして下さいね

などと言って会場の笑いをさそったりしていた。

そのほか、最近老眼鏡をつくりにいった話とか

スーツを誂えたいのになかなか誂えに行くことができず、

そういうやらなきゃいけないことがあるのになかなか行動に移せなくて

結局引きこもって時間を無為に過ごしてああやっちゃったって悶々とすること

あるよネー、みたいな雑談をしていた。

町田さんはこういう他愛ない話の端々にも人をひきつけるところがあって

魅力的なのである。

 

って、本題に入る前に1000文字超えてるやんけ。

町田康が好きすぎて、記憶してるかぎりの事を全部書こうとしてしまうので

こんなことになる。

肝心の詩の話については明日以降書きます…

会が終わった後すこし交流する時間があって、

町田さんは参加者たちの話を聞いたり、サインをしたり

写真撮影に応じたりしていた。

わたしは

町田さんに長野県から来ましたと言ったらまた「中央線で?」といわれて嬉しかった。

(以前サイン会に行ったときも同様のやり取りをした)

こんど山梨に行くんだけど遠いかなあ?ときかれたので

テキトーにああ遠いですよみたいに言ったんだけど

冷静に考えたら熱海と山梨はそんなに遠くない気がする…

わたしは地理に弱いんだ。

あとは私は中原中也の詩では『宿酔』が好きです!と言ったら

ああ千人の天使がバスケットボールするやつね、と言われて嬉しかった。

町田さんの著書にサインをもらったり一緒に写真を撮ってもらったり

ちょいちょい話しかけたりしたのでちょっとあつかましかったかなと後で

思ったけれども、まあよしとする。

 

文字

ネットの粗い文を読むのに飽きたら

小説のよく練られた長文を読めばいいし、

叙情的な文章を甘ったるく感じて

胸焼けがしてきたのならば

新書とか学術書をよめばいい。

 

この春は読書会に参加する予定をしていて、

中島敦名人伝

中原中也の山羊の歌が課題本になっているため読む。

名古屋に遊びに行く予定もつくった。

3月は夫の会社で人事異動の発表があり、もしそれで転勤を言い渡されたら

4月1日には新しい土地に行くことになるので遊びどころじゃなくなる可能性があり、少し不安はある。

上層部が偉ぶったイヤな会社で(私も昔勤めていて厭になってやめたのでこれぐらいのことを言う権利はある。昔よりはマシになったっぽいが)

人事発表から転勤までの時間があまりないというのがこの会社のもっともクソな点の一つだと思っている。

上層部の人間が下の人間をコマのようにあっちこっち動かして自分の影響力に悦に入っているのだとしか思えない。

もっと時間に余裕を持たせての人事発表にすればいいじゃないか。何が不都合なのか。

まあいい。

ムカつくことは数え切れないが、生きていくしかないので。

 

 

ラジオ

夢の中に知っている人が出てくると、

「夢の中に出てきたよ」と本人につい言いたくなってしまう。

夢に出てきたのはまだ会ったことのない若い女の人で、私は夢の中でその人の引っ越し作業を手伝っていた。

新居は見晴らしのいいアパートの一室で、荷ほどきをする際彼女は真っ先に

ラジオを取り出してテーブルに置き、

スイッチを入れていた。

その周りには、ぬいぐるみが何人か。

後日、彼女が新居で実際に新しくラジオを買って聴いていると知って

さても現実と夢が符合したことだ、と妙に嬉しくなったけれども

畢竟こうしたできごとに特別な意味などはなく、

一切の出来事は淡々と流れていくだけで

人間だけが好きなように個々の出来事に意味づけをしているのに過ぎないのだと

思い、ひとりむなしく飲酒、午睡。

外は春の到来を告げるかのような嵐。

そろそろ亀も冬眠から覚める。

 

 

索漠たる日々

コンビニの飯、スナック菓子、ネット通販の肌着、靴下、はっきり言っておれの買い物には色気がない。

それだからダメなんだ。みっともなくぶくぶく太るんだ。

なにか色気のあるもの(食いもの以外)を買うところから始めよう。

生活を立て直そう。

コーヒーショップでカフェオレに向いているというふれ込みのコーヒー豆を選んで挽かせ、買った。

今晩ひさしぶりにドリッパーを使ってカフェオレを淹れよう。

こうしてちょこちょこ細かい用事をつくって時間を殺せば、食うことを考える時間が減って少しはマシな暮らしになるだろう。

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ブコウスキーと南の島

ブコウスキーの酔いどれ紀行の文庫本を大学生協で見つけた。

単行本はすでに持っていたのだが、やはり持ち運びに便利な文庫本も手元に置きたいということで、買った。

ダメ人間の旅行記は魅力的だ。

非の打ち所がない著名人がそつなく観光し、地元民と交流し、特産品を味わう旅行記に用はない。

ブコウスキーは旅行中ほぼ飲んだくれていて二日酔いで、悪態をついている。有名なモスクで、感嘆の声をあげる観光客を尻目に「モスクなんかクソくらえ」と毒づいていたのは良かった。

今日読んだ一節で目に留まったのが、

「多くの人が関心を持つような

出世、レジャー、映画、音楽、恋愛、財産、議論、文化、大人の遊び、子供の遊びなどにまるで興味を感じないがそれでもわたしは文を書いている。

多くの人が黙殺するような卑俗的なものにわたしは目を向ける」といった文と、

「今日会って話した若者たちはいい目をしていた。いい目をした若者たちは家へ帰って何をするのだろうか。部屋の模様替えか、音楽を聴くのか、ソーセージを焼くのか、映画を撮るのか。あの若者たちはいつまでいい目をしていられるのだろうか」という述懐である。

ブコウスキーは平易でぶっきらぼうな言葉しか使わないのに、なぜこんなに含蓄のある・奥行きのある表現ができるのだろうかといつも舌を巻いてしまう。

描写する対象への視線は冷笑的に突き放しているわけではなく、かといってベタベタ寄り添っているわけでもなく、絶妙な客観性とある種の優しさを感じる。

 

あとは2月に南の島に行く予定を立てたので、南の島のガイドブックを買った。

本来レジャーなどほぼ無縁なのだが、

なにか普段やりつけないようなことをやれば精神への賦活作用がのぞめるのではないかと思ったのだ。それぐらい参っているということでもある。

 

きょうは実験用マウスの入荷を手伝った。免疫不全のぬるっとしたヌードマウスだ。

私はべつに動物実験に全面的に反対するものではないが、実験に供されるために生まれてきて、しばらく飲食をして生きて、やがて屠られるマウスの一生を考えるとなんともいえない気持ちになる。

私も人間としてじぶんの一生をなにか上等なものとして思いたい気持ちはあるが、何のことはない、ヌードマウスの一生と変わるところはないのだろうとも思う。f:id:osenpe:20171213002107j:image

甘い甘いアイスレモンティーが数少ない癒やし。

 

寝て過ごす日々

無理やり仕事に行き、それ以外はほぼ横になる日が続いている。

家事はほとんど夫に任せてしまっている。申し訳ないと思う。あきれられていることだろう。

人の繋がりから遠ざかっているような感覚があって淋しい。疎遠になった人もいくらかいる。これはどうしようもないことだと思う。

それでも相手をしてくれる人の存在はありがたい。

 

感覚が鈍麻して本を楽しく読めなくなっているのも辛い。一過性のものであることを願う。

 

馬の鼻先にぶら下げる人参のごときものが必要かと思い、思い切って南の島へのツアー旅行を予約した。

2月まで生き延びる理由ができた。

じんましんが出た

じんましんが出た。

おとといの夜無性に服の締め付けが気になり、体じゅうの皮膚が痒くて掻きむしったら発疹がブワッと出てダメになってまった。

去年と同じパターンだ。下肢が特にひどい。

去年もこのくらいの時期にじんましんが出て皮膚科に行ったらめちゃくちゃ混んでたうえ、臀部をむき出しにされ炎症どめの注射をうたれて屈辱的だった思い出。

 

皮膚の患いというと思い出されるのが

太宰治の「皮膚と心」。

体に突然発疹が出た女人が夫と共に病院へ行くという出来事を通して

女人の微妙なこころの在り方、夫への想いを描写した作品だ。

皮膚の状態が心のありようを大きく左右するというのはまさにその通りで、

参ってしまった。

ゆうべは風呂にも入れず眠り込んでいた。

気持ち悪くてしょうがない。からだじゅうがワジャワジャする。

しかたない。

そのうちなおるだろう。

きょうは少し残業をして、疲れた。

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夕景

ゆかいな東京道中・2

風が強くて職場の廊下にも頭の中にも

落ち葉が侵入してくる。

 

二日目。

町田康の講演が行われる中央大学多摩キャンパスへ。

町田康の講演が聴けるという事しか頭になかったが、要は学祭の一環として著名人が招ばれたということらしい。

学祭の騒々しい雰囲気はどちらかというと苦手なのだが仕方ない。

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多摩モノレールに乗る前に見た公園。

 

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キャンパス。私の通った大学はこんなに立派じゃなかった。

 

学祭ということで学生さんの出す屋台が軒を連ねており、わたがしフランクフルト焼きそばケバブ焼き鳥その他諸々の食べ物を商っていた。

サークルで屋台を出している学生たちは 客引きにきわめて熱心である。

それにしても、若くて今風の身なりをした女の子ふたり連れなどはあちこちで客引きに捕まっておるが、グラサンをかけスカジャンを着たおばはんであるところの自分には客引きどもが全くもって声をかけてこない。失敬な。こっちだって別にフランクフルトなんざ食いたくないわ。

と内心毒づく。

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って、それにしてもなんと広いキャンパスか。

講演会の会場ははずれにある8号館。

 

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講演会だが、めちゃくちゃ良かった。

書くことと読むことの関係がテーマだったが、アウトプットありきでインプットすると情報の受容の仕方が偏ってしまうとか、

語彙を増やすことが果たして文章力を鍛えることなのか?という問題提起とか

自身の体験や町田氏お気に入りの本の朗読もまじえた談話は

極めておもしろく、

町田氏の語り口も大阪弁混じりの声色や冗談が随所に盛り込まれており

町田氏のくるくる変わる表情や躍動感ある仕草も相俟って聴衆からは笑いが絶えず

「やはり文章も面白いがしゃべりもおもしろいなあ」と感じ入った次第。

 講演の内容は別途まとめたい。

ちなみに私の好きな作家であるブコウスキーの名が出てきたときは興奮した。

他にはロックミュージシャンの名前とか、村上春樹保坂和志の名前も出てきた。もりだくさん。

 

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私が一番最初に出会った町田康の本にサインをもらった。わりと初期の作品。

講演会の客がはけてからサイン会が始まったのだが、町田康が再登場の際

「うーす。うーす」とサイン待ちで並んでる客におどけて挨拶してきたのがおもしろかった。

サインをもらうとき、この本が一番好きなんですと話しかけてみたら表紙を見ながら

「ああ、懐かしいなあ」と言っていた。

ホサナのサイン会にも行ったんですよーと言ったら

「あれもわりと最近でしたよね」と返ってきて、もう言葉を交わせただけでハッピーになってしまった。

 

町田康はスーツ姿だったが、講演が終わって椅子から立ち上がりジャケットのボタンをかけるときにチラッと覗いたネクタイがドクロ柄だったのが見えて感無量過ぎて

ああもう死んでもいい…と思った。

ファンじゃない者からしたら何のこっちゃという感じだろう。

 

この講演を聴いて、マジで生きるのが楽になるぐらい本当によかった。

また町田康の話がきける機会があればいいなと思う。

 

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帰る頃にはもう暗くなっていた。

大学構内でイルミネーションとは、豪儀なことである。

会話の解像度を場に応じて変える

誰でもふだん無意識のうちにやっていることだろうが、会話の解像度を場に応じて変えるということをスムーズにできるようになりたい。

 

有名なお城に登った、という体験を人に話すとき、仕事の合間に同僚に伝えるときと通りすがりに大家さんに世間話するときとお茶をしながら友人に伝えるときとでは、

どの程度詳細に話すか・どのくらいの長さで話すかという点を自在に変える必要が出てくる。

同僚に伝えるときは

天守閣から紅葉が見えて綺麗だった、程度で話を切り上げるかもしれないし

友達に伝えるときは

城の階段の段差がことのほか急で運動不足のじぶんは翌日筋肉痛になってしまったわ。おほほ。

ぐらいのところまでつっこんだ話をするかもしれない。

 

会話がうまくいかないケースというのは、詳細に話してもいいときに簡潔に話しすぎて間が持たないとか

時間がない相手にあれこれ細かく話しすぎて「そんなこと知らんっちゅうねん」と内心相手を辟易させてしまうなどの例が考えられる。

幸せがなんなのかおれにはよくわからないが

幸せになる、とはどういう状態を指すのだろうか。

なんとなく、みていると不安になってくる言葉だ。

あの人に幸せになって欲しいとは口幅ったくてとても言えないが、

気楽になれるように、楽しくなるようにとは願わせてほしい。

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